キリストとともに

◆エペソ人への手紙2章1節~9節

2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

◎メッセージのポイント

パウロは救われた者たちのかつての状態と、恵みによって救われた今の状態とを比較して、恵みのすばらしさを訴えています。恵みはなぜ恵みなのでしょ うか?人間が自分の力で自分を救うことができるのであれば、恵みは必要ありません。そうできると考える人もいるかもしれませんが、聖書は人間が罪の前に は、まったく無力な存在であると教えています。罪の中に失われ死んでいた私たちに神のいのちを与えたのが恵みです。悪魔の支配の中に置かれていた私たちを 解放し御子の治められる神の国に招き入れくださったのが恵みです。滅びと裁きに定められた運命から私たちを解放し天にあるすべての霊的祝福を受け継ぐ者としてくださったもの、それが恵みなのです。

Ⅰ.キリストともに生かされた

私たちが「死んだ者」となるか「生かされた者」となるかは、すべてを創られたいのちの源である創造主との関係を持っているかどうかにかかっていま す。聖書の語る「いのち」とは、神の与えるいのち、霊的ないのちです。救いとはキリストにあるこの「いのち」を与えられることです。

Ⅱ.キリストとともによみがえらされた

ここでは語られていませんが、よみがえったと言う以上、キリストとともに葬られたという意味が含まれています。ローマ人への手紙6章4節~7節で は、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられ、キリストとともに葬られたのは私たちがいいのちにあって新しい歩みをするためであると書かれてあ ります。

Ⅲ.キリストともにすわらせられた

エペソ人への手紙には三つの鍵となる言葉(動詞)が使われています。その一つはこの箇所に登場する「すわる」であり、残りの二つは「歩む」と「立 つ」です。20世紀初頭の中国の教会指導者として有名なウォッチマン・ニーはこの三つのキーワードを使ってエペソ人への手紙を解き明かしました。すわるとは、キリストがその贖いを通して私たちに与えてくださった立場にすわることです。歩むとは、聖徒にふさわしく歩むことです。そして、立つとは、敵に向かっ て立ち向かうことです。

1.キリストにあって自分が何者であるかを知ること

私たちは、キリストがすわっておられる天の御座の隣にすわらされたと聖書は語っています。みなさん、ご自分がキリストとともにすわっている姿を想像 してください。どんな姿で、どんな椅子にすわっているのでしょうか?ゆったりとした大きな椅子に安心して座っている姿を想像できるでしょうか。それとも今 にも壊れそうな小さな椅子に不安そうにすわっているのでしょうか。私たちが自分でキリストの隣に座ったのであれば不安になるかもしれませんが、聖書には神 が私たちを座らせてくださったと書いてあるのです。私たちはそこにどっかりと安心してすわってよいのです。すわるとは神の約束を信頼し安息することも含ま れているからです。

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2.すわるとはキリストの贖いに対する全幅の信頼を置くこと/div>

キリストとともにすわるとは、キリストが私たちに与え下さった立場を知り、それを認め、受け入れることです。何度も言いますが、私たちには天にある すべての霊的祝福を受け取るところの相続者としての立場が与えられているのです。これが救われた者である私たちのアイデンティティーです。聖書は私たちを どのような者であると教えているでしょうか。一か所だけ聖書を開いてみましょう。/div>

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(Ⅰペテロ2:9)