◆エペソ人への手紙6章1節~9節
6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。
◎キリストに従うように
聖書は、キリストに従うように(仕えるように)、従うべき人に従いなさい(仕えるべき人に仕えなさい)と私たちに命じています。現実の人間関係(夫 婦関係、親子関係、雇用関係)の中で、弱さを持った私たちが、同じく弱さを持った他の人たちに仕えることは、確かに簡単なことではないかもしれません。し かし、それが赦しと愛に満ちた方である主を知るための一番の近道なのです。
Ⅰ.第一の戒め
「主にあって両親に従いなさい」とは「両親の言うことを良く聞いて、理解して、そして従いなさい」という意味です。盲目的に服従しなさいという意味 ではありません。親に対しては、「子どもたちをおこらせてはいけない」と書かれていますが、その意味するところは、(コロサイ3:21で語られているように)子供を落胆させてはいけないということです。親の不当な怒り、的外れな厳しさ、一貫性のない態度は子供を傷つけてしまいます。「主の教育と訓戒」とは 親が子供たちのお手本になるところから出発することだと思います。

Ⅱ.主であるキリストの命令
私たちに「仕えなさい」「従いなさい」と命じている聖書は、私たちに「喜びなさい」「感謝しなさい」「赦しなさい」「愛しなさい」とも命じていま す。すべて主である神さまの命令です。私たちの弱さ、私たちの複雑な現状、私たちの痛んだ関係に目を留めるならば、とても難しい要求のように思われてしま います。しかし、キリストの言葉にしたがっていこうと決断する時に、主は責任を持って私たちを助けてくださるのです。変わったら従うのではなく、従う時に 変化がもたらされるのです。わずかなことしかできなくても、小さなことしかできなくても、そこから始めて行きましょう。主はそこに必ず変化をもたらしてく ださいます。
Ⅲ.私たちの弱さを知っておられるキリスト
当時のローマ帝国内には、人口の約五分の一、ローマ市内に限ると人口の約三分の一が奴隷であったと言われています。その奴隷たち中にクリスチャンが 多くいたのです。奴隷と言っても、当時の奴隷制度の中では、医者や教師として働いていた人々もいました。現代社会に当てはめて考えるなら、労働者、被雇用 者の立場に置かれているクリスチャンと考えることができると思います。エペソの手紙が書かれた当時も、私たちが生きている現在も罪に満ちた不完全な世界で あるという点では何も変わっていません。この世界は、不正や不正義、理不尽なことや不公平なことで満ちています。聖書は、そのような世界の中でクリスチャ ンとして誠実に生きていくように、人々に仕えていくようにと求めているのです。
Ⅳ.私たちの弱さを知っておられるキリスト
「キリストに従うように(仕えるように)」と聖書が語っているのは、私たちの置かれているすべての状況、関係の中に主が介在してくださるからです。 その困難な状況の中に、傷ついた関係の中に主は介入したいと願っていらっしゃいます。主はどのように、またどのような姿で、私たちの生活の中に介入してく ださるのでしょう。王としての絶対的な権威をもってでしょうか。そうではなく、主はあくまでも私たちを通して、仕える者の姿をとって、私たち生活に人生に 働きかけようとされているのです。「仕えなさい」「従いなさい」と聖書が命じているのは、キリストのようになりなさいということです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6、7)
それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:51、52)