聖霊は風のように

◆ヨハネの福音書3章1節~11節

3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

◎ニコデモ

聖書にはイエス様と様々な人々との出会いが記されています。イエス様が出会われた人々の中で、ニコデモはパリサイ派の宗教指導者、またサンヘドリン (70人ほどからなるユダヤ人の最高法院)の議員でもあり、当時のユダヤ社会の中ではエリート中のエリートであったことが分かります。イエス様が厳しく対 峙していた他のパリサイ人とは違って、ニコデモは謙虚な人でもありました。ヨハネの福音書を読み進んでいくと、イエス様が十字架にかかり、処刑された後 で、ニコデモはアリマタヤのヨセフと共に遺体を引き取り、埋葬しています。3章で人目を恐れて夜イエス様に会いに行ったニコデモでしたが、19章では公に 自分の決意を表明し、キリストの弟子として歩み始めた姿を見ることができます。

Ⅰ.新しく生まれる

ニコデモは、イエス様のなさるしるし(不思議な業、奇跡)を見て、イエスがメシアではないかと考えたのだと思います。旧約聖書の預言に精通していた ニコデモは、「神の国の到来、イエスラエルの回復」についてイエス様から何か聞けるのではないかと期待したいたのではないでしょうか。イエス様はそれを読 み取って、単刀直入に彼に語られたのだと思います。「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」ここからイエス様とニコデモとのちぐは ぐな会話が始まります。ニコデモが政治的なイスラエルの復興を考えていたのに対して、イエス様は、霊的な神の国(神のご支配)について語っていたからで す。「新しく生まれる」というイエス様の言葉に対しても、ニコデモは人間的な理解しか持っていませんでした。

Ⅱ.御霊によって生まれる

イエス様は「新しく生まれる」とは「御霊によって生まれる」ことなのだと教えています。「あなたの霊が聖霊によって触れられなければ、自分の罪深い 状態も、神の愛も、赦しも、永遠のいのちも知ることはできない」と、イエス様は語っておられたのです。聖霊に触れられなければ、霊的な神の国(神のご支 配)を見ることも、知ることも、そこに入ることもできないのです。聖霊だけが、私たちの見えない目を開いて、神の国を見ることができるようにしてくださる のです。その時初めて、私たちの心が変えられるのです。聖書は、人間は自分の力で自分を救うことはできないと教えています。ニコデモは確かに立派な人では ありましたが、救われてはいなかったのです。他の罪人たちと同様に、御霊に触れられる必要があったのです。

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Ⅲ.聖霊は風のように

イエス様はまた、聖霊が風のような方であると語られました。目に見えない方ではあるけれども、確かにそこにおられ、私たちに触れ、変えてくださる方 であるということです。その働きと実を見ることはできるのです。ヨットは自力で進むことはできません。無風状態が続けば、ヨットはいつまでも同じ場所にと どまっていなければなりません。ヨットは自分の動力を持っているモーターボートと違って完全に風の力に依存しているからです。新しく生まれた者、神の子ど もである私たちの人生は、風の力に頼るヨットで海の旅をするのに似ています。

1.聖霊に対して心を開く

外に風が吹いて入も、窓を閉ざしているなら部屋の中に風は入ってきません。聖霊の風を迎え入れるためには、私たちが心の窓を開かなければなりませ ん。私たちの心の中に、生活の中に、関係の中に、家庭に中に聖霊を迎え入れようと窓を開くならば、そこから聖霊は入ってきてくださるのです。

2.聖霊の風を待つ

聖霊は、私たちにとっていつが最善の時か、何が最善の方法かをご存知です。無風状態が続く時に、感謝の心をもって主を待ち望む姿勢を身に着ける必要 があります。詩篇の中で34節に渡って「主を待ち望む」と歌われています。待ち望むとは信頼することでもあります。私たちは自分自身も人も変えることはで きませんが、心の窓を開くことはできるのです。

3.聖霊の風を受ける

私たちは「風を吹かせる」ことはできません、聖霊がご父の御心に従って自由に動かれるからです。ただし、私たちはいつ風が吹いてもいいように備えを することが必要です。無風状態の時に、帆を降ろして眠っているのなら風を逃してしまいます。風が吹いていない時にも、賛美の帆、感謝の帆を降ろしてしまっ てはいけません。

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4.聖霊はいつも共におられる

何も変化がないように見えても、もう一人の助け主である聖霊はいつも私たちと共にいてくださると、イエス様は約束してくださっています。今、風が吹 いても吹かなくても、愛なる方、恵み深い助け主がいつも共にいてくださるのです。この方に信頼して歩んで行きましょう。風が吹き始める時が必ず来るので す。

小説家の五木寛之氏が以下のような文章を書いています。

「『他力』の思想はヨッ トにたとえられる。エンジンのついていないヨットは無風状態では走ることができません。ヨットの上でどんなにがんばっても無駄。しかし、風が吹いてきたと きにヨットの帆をおろして居眠りをしていたのであれば走る機会を失ってしまいます。だから無風状態が続いても、じっと我慢し、注意深く風を待ち、空模様を 眺めて風を待つ努力が必要なのです。他力の風が吹かなければ、ヨットのように私たちの日常も思うとおりに動かないものなのでしょう。」(五木寛之)

五木さんは仏教的な視点で「他力」という言葉を使っています。キリスト教の救いも「他力」と言うことができると思いますが、私たちがもう一人の助け主である目に見えない聖霊と親しい交わりを持つことができるという点で大きく異なります。