◆ヨハネの福音書3章16節~21節
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
◎「プシュケー」と「ゾーエー」
ヨハネの福音書の大切なキーワードの一つは「いのち」です。聖書では、「いのち」を現す言葉として「プシュケー」と「ゾーエー」の二つの原語(ギリ シャ語)が使われています。簡単に違いを説明すると、どちらも創造主が人間に与えたものではありますが、「プシュケー」が「肉体的(また精神的)な限りあ るいのち」を表すのに対して、「ゾーエー」は「根源的、霊的ないのち」を表しています。ヨハネの福音書は、イエス様が「いのち」(ゾーエー)なる方である と証ししています。聖書の中で「プシュケー」と「ゾーエー」をどのように使い分けているか見てみましょう。
◇自分のいのち(プシュケー)のことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。 (マタイ6:25)
◇いのち(ゾーエー)に至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 (マタイ7:14)
◇わたしが来たのは、羊がいのち(ゾーエー)を得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのち(プシュケー)を捨てます。 (ヨハネ10:10~11)
◇神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのち(ゾーエー)を持つためである。 (ヨハネ3:16)
Ⅰ.永遠のいのち
ゾーエーとは永遠のいのちです。ヨハネの福音書3章16節で語られている永遠のいのちは「ゾーエー」です。神の姿に似せて造られた霊的な存在であ る、また愛の対象である人間に与えられた根源的ないのちです。神に反逆した人間はこの「いのち」ゾーエーを失ってしまい、プシュケーだけで生きているので す。聖書はイエス様が私たちを救うために、永遠のいのちを与えるために来られたと教えています。救われるとは天国へのパスポートをいただくことですが、そ れだけではありません。創造主である父なる神の子どもとしてこの地上で神の国に生きていくことが永遠のいのちの始まりなのです。
キリストの与える「永遠のいのち」は私たちに揺るぐことのない希望を与えます。
Ⅱ.新しいいのち
ゾーエーとは新しいいのちです。自分の痛んだ姿、壊れた姿、罪の中で失われた姿を認め、救い主を心に招き入れる時に、神さまは私たちに新しいいのち を与えてくださいます。新しく生まれ、神の国に入り、神の子どもとして生きて行くことができるのです。神の子とされた人々の人生は永遠のいのち(天国)へ とつながっているのです。パスカルは次のように語っています。「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋め ることができない。」パスカルは、人間の心の一番肝心な部分に穴が開いていると言うのです。多くの人はあまりにも忙しいので、その空洞に気づかずに生きて います。ただ、キリストの与える新しいいのちだけがその空洞を満たすことができるのです。

キリストの与える「新しいいのち」は私たちをすべての束縛(罪と呪い)から解放します。
Ⅲ.手放す
私たちは自分の所有権や主導権を失うことを本能的に恐れます。ある場合にはそれはあなたの心を縛ってきた否定的な感情であるかもしれません。なんで あれ自分がずっと守ってきたものを手放すのには痛みが伴うのです。自分の持っているものを誰かにゆだねると言うことはその人に対する信頼がなければできま せん。そのような私たちにイエス様は手放しなさいと語っておられるのです。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたが たを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安ら ぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)
Ⅲ.神のいのち
ゾーエーとは神のいのちです。多くの人は自分のいのちは自分のものであると思って生きています。かつての私たちもそのように生きていました。神のい のちを持たずに(創造主との関係を持たずに)生きることはできるでしょう。しかし、聖書はその行きつくところは滅びであると教えています。滅びの道を歩ん でいたそのような私たちを探して救うためにキリストは来てくださったのです。聖書の教える救いは全ての人に対する神様からの無償の贈り物です。私たちに とっては無償の贈り物ですが、「十字架の死」という大きな犠牲を通して与えられた贈り物なのです。キリストはご自身の血(いのち)を代価に私たちを贖って (買い取って)くださったのです。救われて神の子とされているならば、もはや私たちのいのちは私たちのものではありません。買い取ってくださった方のもの なのです。
キリストの与える「神のいのち」は私たちに神の子として生きる特権を与えます。
Ⅳ.豊かないのち
ゾーエーとは豊かないのちです。救い主が来られたのは、私たちに「いのち」与えるためでした。しかし、ただ生かすためではなく、豊かに生かすために 来られたのだとイエス様は語られました。(ヨハネ10:10)豊かにいのちをいただく、豊かに生かされるとは、どういうことでしょう。物質的な豊かさも含 まれているかもしれませんが、聖書が約束している豊かさはそれ以上のものです。仮に乏しい中に置かれたとしても、困難な中に置かれたとしても、父なる神と の関係の中にあって、平安と感謝に満たされ、望みを与えられて生きることができる、そのような豊かさです。あなたが神様の与える豊かないのちに満たされる ならば、そのいのちはあなたの中だけに留めておく事はできません。あなたから流れ出して、周囲の人々にもいのちを与えるのです。
キリストの与える「豊かないのち」は私たちを通して人々を潤しこの世界に変化を起こします。
Ⅴ.復活のいのち
そしてゾーエーとは復活のいのちです。
キリストが与える「復活のいのち」は罪と死、悪魔の力を打ち破り、私たちに勝利を与えます。
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)
