◆ヨハネの福音書1章12節~13節
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
◎束の間の人生
あなたはあなたの人生を短く感じますか、それとも長く感じますか?神様の目からご覧になった時に、私たちの人生は、ほんの束の間です。その短い人生を、どのように生きたいと願っていらっしゃるでしょうか。
Ⅰ.私はだれか?
「自分探し」という言葉を聞きますが、人間の本質を言い当てた表現だと思います。なぜなら私たち人間にとっての最大の関心は「自分はだれか」「自分 の価値はどこにあるか」ということだからです。それを追及して生きていると言うこともできると思います。自分の価値を見つけるために、自分を実現するため に生きていると言うこともできるでしょう。

1.自分の価値を「自分がしたこと」に求める生き方
「私はこれだけ良いことをしました。これだけすぐれた功績を残しました。こんなにたくさんの仕事をし て、素晴らしい結果を出しました。」と言ってもいつまでもそれを続けることはできません。
2.自分の価値を「他の人の評価」に求める生き方
多くの人は人の評価を気にして生きています。褒められている時は、気分が良いでしょうが、誰かに一言、批判されたり、意地悪なことを言われたりしたら、私たちはひどく傷ついてしまいます。
3.自分の価値を「所有している物」に求める生き方
良い家庭に育ち、優れた教育を受け、仕事と家庭に恵 まれ、立派な家に住み、健康な体が与えられていることは幸いなことですが、そこに自分の価値を置くなら常に不安と背中合わせの人生を送ることになりま す。もし、愛する人がなくなったり、会社からリストラされたり、病気になったりして、それらのうちの一つでも失ってしまったら、私たちはたちまち失望して しまうからです。
自分の価値をこのようなことに求めるならば、私たちの人生はとても不安定なものになってしまいます。良いことができ、人から評価され、望むものを 持っている時は、幸福であっても、どれか一つでも失ってしまうなら不幸になってしまいます。そこにあるのは上がったり下がったりの人生です。自分の功績に しがみつき、人の評価を得ようとして、持っているものを握りしめて生きる生き方には絶えず不安が付きまといます。いつそれらのものを失うか分からないから です。そうやって短い人生を費やし、やがて死を迎えるわけですが、死んでしまえばもう何もできませんし、すぐに人々から忘れられてしまうでしょうし、持っ ていた物も全て失ってしまいます。神様は私たちにこのような生き方を願っておられません。人間の価値はそのようなものにはないからです。
◎荒野の誘惑
サタンはイエス様をどのように誘惑したか思い出してください。まず「この石がパンになるように、命じなさい。」(あなたの神の御子としての能力を示 しなさい)と言って誘惑しました。次に「神の子なら、ここから下に身を投げてみなさい」(傷つかないあなたの姿を見て、人々はあなたを称賛するでしょ う。)と言って誘惑しました。最後に「もしひれ伏して私を拝むなら、これ(この世の富)を全部あなたに差し上げましょう。」と言って誘惑しました。
力を示し、称賛され、富を所有するならば、人々はあなたを神の子として認めるだろうと言ってサタンはイエス様を誘惑したのです。イエス様はサタンの偽りに対して「NO」と言われたのです。
イエス様は真理に立って、サタンの誘惑を退けたのです。荒野で誘惑を受けられる前にイエス様はどこにいましたか。ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのです。その時、イエス様の上に聖霊が下られ、天から声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
Ⅰ.わたしの愛する子
イエス・キリストを通して救われた私たちに対しても、神様は「わたしの愛する子よ。」と呼びかけてくださるのです。それが私たちに与えられた立場(特権)です。(イエス様は初めから罪のない一人子なる神であり、私たちは罪赦されて神の子とされた人間にすぎないという点では違います。)
イエス様は公生涯の中で、ある時には人々の称賛を受け、ある時には罵られました。ホザナと叫ぶ群衆の歓迎を受け、それから間もなく「十字架につけ ろ」という群衆の叫びによって十字架の上で処刑されてしまいます。それは私たちの罪の贖いのためでした。イエス様の目は人間の評価には向けられていません でした。常に「わたしの愛する子よ。」と呼びかける父なる神様に向けられていたのです。
Ⅱ.神の子どもとされる特権
神様は、あなたにも「私の愛する子よ。」と語りかけてくださっているのです。その声を聞かなければなりません。父なる神様は、私たちがその語りかけ を聞いて「愛されている神の子」として生きていくことを願っておられます。私たちは頭ではなく心でその声を聞かなければなりません。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」(エレミヤ31:3)
「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:16)
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ42:4)
・・・このように語られている父なる神様の声を聞かなければなりません。神様の語りかけを聞いて生きるなら「愛されている者」として生きることができるのです.
神様に愛されていることを本当に知るならば、私たちの生活は変えられていきます。称賛されたり、拒絶されたりするときにも、何かを得た時にも、何かを失った時にも、「父なる神様に愛されている神の子」として生きていくことができるのです。
もう自分探しをする必要はありません。ものごとの結果があなたの価値に影響を与えることはないからです。「神の子」として生きることができるのです。

Ⅲ.最初の愛
私たちは、両親や家族の愛を受けて生きてきました。ですが、同時に同じ人たちから傷も受けて来ています。私たちをもっとも深く傷つけるのは私たちに近い関係にある人々です。父親や母親、夫や妻、兄弟や友人、あるいは教会の人々かもしれません。このような罪に満ちた世界、このような不完全な関係の中に 私たちは置かれていますが、どのように生きたらよいのでしょうか。
ただ一つの方法はあなたに向けられた最初の愛、いつまでも変わらない神の愛に立ち返ることです。あなたが誘惑にあう時、苦々しい思いに飲み込まれそうになった時、拒絶感に打ちのめされそうになった時、「NO」と言って、あなたに向けられて いる最初の愛に立ち返ってください。「わたしは神に愛されている者です」「神の子どもです」と自分自身に強く語りかけるのです。真理が心に根付くならば私たちは自由にされ他の人々を同じ愛で愛することができるようになるのです。
神様の愛だけが私たちの魂を満たすことができるのです。なぜなら神様がそのように私たちをお造りになったからです。