よくなりたいか。

◆ヨハネの福音書5章1節~18節

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。 

5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。 
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。 
5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」 
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」 5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」 
5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。 
5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」 
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。 
5:16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。 
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」 
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

◎メッセージの前に

私たちはどこかに痛みを抱えて生きています。それが心の痛みであれ、肉体的な痛みであれ、人間関係の痛みであれ、キリストは私たちが「良くなりたいです。」と訴えるのを待っておられます。

Ⅰ.ベテスダ

◎人々は癒し主がそこにいることに気付かなかった

主イエスが訪れたベテスダの池の周りは大勢の病んだ人々が群がっていました。実際に奇跡が起こったのかどうかは分かりませんが、「池の水が動いた時に最初に入ったものは癒される」とそう信じる人々がこの池の周りに集まっていたのです。主イエスはその中にいる一人の男に向かって歩いて行きました。主イエスは彼が38年もの間、病を患い今は体を起こすこともままならない絶望的な状況に置かれていることをご存知でした。癒されることを願ってそこにいた人々は多くいたのです。しかし主イエスは、その中にいたただ一人の男に目を留めてまっすぐに近づいてこられました。なぜなのかは私たちには分かりません、でももし理由あるとするなら、主イエスはもっとも希望のないこの男をあえて選ばれたのではないかと思うのです。

Ⅱ.「よくなりたいか。」

◎主イエスは他のだれでもないあなたに問いかけている 

この男をまっすぐに見つめて主イエスは「よくなりたいか。」と問われました。主イエスはいつでもどこでも癒すことのできるお方です。しかし、私たちに働きかける前に私たちの意志を確認され、私たちに同意を求められるのです。もしかしたら38年間の間にこの男の「よくなりたい。」という願いは失望の中に枯れてしまっていたかもしれません。主イエスはそれを呼び起こそうとされたのではないでしょうか。「よくなりたいか。」とは「あなたはよくなりたいか。」であり、また「わたしはあなたを治すことができます。それを望みますか。」ということでもあります。

主イエスは同じように私たちにも問われているのです。「あなたは、よくなりたいか。」と。他の誰でもないあなたに「よくなりたいか」と問われているのです。
主イエスの問いかけに対する答えは「YES」か「NO」しかないはずです。ところが、この問いかけに対して男は自分が癒しを受けられない理由を説明し始めました。癒し主である主イエスが目の前に立っているのに、男の意識はまだベテスダの池に向けられたままでした。もしかしたら、この人がベテスダの池に自分を入れてくれるかもしれないという淡い期待を抱いていたのかもしれませんね。ベテスダの池は「私たちの願う方法」を象徴しています。私たちはどうでしょうか?私たちの目は今もまだベテスダの池に向けられているのでしょうか?それとも、私たちの目の前に立っておられる癒し主に向けられているでしょうか?

Ⅲ.「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

◎神の力はあなたが応答するときに開放される

相変わらず現状分析を続けているこの男の言葉をさえぎるように、主イエスは「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と命じられました。男の注意を癒し主であるご自身に向けさせたのです。男は主イエスの権威ある言葉に圧倒されて、とっさに従おうとしたのだと思います。それは瞬時の決断でした。主イエスは38年間病を患い今は動くこともままならない病人に向かって「起き上がりなさい」「床を取り上げなさい」「歩きなさい」という三つの不可能な命令を下されたのです。

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神の力は私たちが応答する時に、決断してそれに応じようとする時に、私たちの内に開放されます。ただし、そこには順番があります。まず、神様のご意志と私たち人間に対する働きかけが先にあり、その神の働きかけに対する私たちの応答が次にあるということです。確かに愛と哀れみの神は私たちの叫びを聞いて、ある時には超自然的に働いてくださる方ですが、私たちが指示を出して神を動かせるということではありません。私たちは救い主に向かって「癒してください。解放してください。」と訴えてよいのです。主は私たちの訴えを聞いてくださいます。ただし、必ずしも私たちが願う形で働かれるとは限らないということです。私たちが神の用意された答えを受け入れる従順な者となることを神は願っておられます。救い主は私たちの弱さや痛みをすべて知っておられる哀れみ深い方なのです。

 癒し主である主イエス
 あなたは、今、ここにおられます。
 私は痛んでいます。
 わたしはよくなりたいです。
 わたしに触れ、
 私をいやし、
 回復してください。