いのちのパンⅡ

父なる神は、私たちをキリストのもとに引き寄せ
私たちの渇きを満たしてくださる方です。

◆ヨハネの福音書6章35節~51節

6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 
6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。 
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。 
6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。 
6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」 
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。 
6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」 
6:43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。 
6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 
6:45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。 
6:46 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。 
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。 
6:48 わたしはいのちのパンです。 
6:49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。 
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。 
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

◎メッセージの前に

人間はなんらかの渇き(飢え)をこころに持って生きている存在だと思います。渇きは「満たされたい」という願いです。渇きがないと言う人は忙しすぎるか、十分満足しているように感じている人たちでしょう。主イエスがここで問いかけている渇きは、人間だれもが持っている魂の渇きです。あなたにはこころに渇きを感じていますか?あなたは何によってその渇きを満たそうとしていますか?

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Ⅰ.いのちのパン

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 (6:35)

1.霊的な飢え渇き

主イエスは、人々に自分たちの中にある霊的な飢え、霊的な渇きに目を向けるように語りかけました。ニコデモには「新しく生まれるように」と、サマリヤの女には「真の礼拝者になるように」と、そしてこの群集に対しては「永遠のいのちにいたる食物のために働くように」と。なぜならば、人は自分の霊的な渇きに気付かなければ、霊的な食物を求めないからです。いのちの水、いのちのパンを得ようとしないのです。

2.霊的な渇きを隠すもの

宗教的に人格的にも立派なニコデモは、自分が霊的に新しく生まれなければならないことを理解することができませんでした。サマリヤの女は、男性の愛(恋愛)で自分の孤独を満たそうとしていましたが、自分の心の深くにある霊的な渇きに気付きませんでした。メシヤの力を利用してローマの支配からイスラエルの解放を願った群衆は、主イエスの語る神の国もいのちのパンも理解できませんでした。

新しく生まれた私たちは、神の国に生きる者とされ、いのちの水を自由に飲むことができ、いのちのパンをすでに食べているのです。でも、なぜまだ渇いているのでしょう?あるいは、なぜ渇きを覚えないのでしょう?

Ⅱ. 引き寄せられる父

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(6:44)

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1.引き寄せるとは

救われて神の子とされた私たちは、例外なく父なる神に引き寄せられて救い主に出会っているのです。神様が失われていた私たちを探し、救いの中に招き入れてくださったのです。ここで使われている「引き寄せる」という言葉は「重い物を引きずって行く」という意味があるそうです。何らかの抵抗があるのです。でも、これは神様がいやがる私たちを強引に引っ張って行くという意味ではありません。神様に反抗し続けていた私たちに、愛をもって語りかけ、忍耐をもって招き、私たちが向きを変えた時に私たちの心を造り変えてくださるということです。私たちを神様から引き離そうとする思いから解放してくださるということです。

2.どこに引き寄せられるのか

父なる神が引き寄せられる場所とは、真理の光の中であり、ご自身が愛をもってご支配される神の国の中であり、愛の交わりコイノニアのあるところです。

3.あなたには渇きがありますか?

何によって渇きを満たそうとしているでしょう?そしてどこを向いていますか?あなたはどこにいますか?父なる神様はあなたの方を向いて、あなたを引き寄せ、あなたの渇きを満たしたいと願っておられるのです。

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、
ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(イザヤ40:11)

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