◇メッセージの前に
「いのちのパン」とは十字架の上で犠牲としてささげられるキリストの体(肉)を指しています。前回、いのちのパンを食べるとは「キリストの十字架の犠牲」を信じ受け入れることであると学びました。食べるとは「いのちのパン」であるキリストを信じるだけでなく、そのことばに従うことでもあります。
◆ヨハネの福音書6章58節~69節
6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
6:61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
6:62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――
6:65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
6:67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネ6:52~58)
Ⅰ.つまずき
そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」 (6:60)
人々は主イエスの語ったことばに対して「ひどいことばだ」と言ってつぶやきました。ここで使われている「ひどい」は「不快な」あるいは「とても受け入れらない」という意味があります。彼らは主イエスの語っておられた霊的な教えをまず理解できませんでしたし、不快で、とうてい受け入れられなかったのです。
主イエスは私たちに「この世が与えるパンを食べ、この世に属する者として生きるのか」、それとも「いのちのパンを食べ、目に見えない神の国にに属する者として生きるのか」、迫っておられるように思います。
Ⅱ.いのちを与える御霊
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。 (ヨハネ6:63)
主イエスの語られることばは霊であり、また主イエスご自身が神のことばなるお方です。いのちのパンであるイエスを食べるならば、神のことばを信じるとだけでなくそれに従うことでもあります。
「肉」はまた私たちの罪に満ちた古い(生まれつきの)性質を指していますが、主イエスは「肉が悪である」という言い方はここでしていません。益にならない(役に立たない)と言っているのです。ここで語られている「肉」とは目に見える物質的なもの、神から離れた人間的なものすべてを指しているように思われます。ここにいた人々はローマ帝国の支配からイスラエルが政治的に解放されることをメシアに求めていました。それに対して主イエスの伝えていた「神の国の福音」は罪と呪い、目に見えないこの世の支配者である悪魔の力からの解放でした。たとえローマ帝国から独立できたとしても、罪の奴隷のままでいるならば、何の益にもならないと語られているようにも見えます。
救い主は私たちの困難な状況を変えるために来られてのではなく、困難な状況の中にいる私たちを罪の支配から開放し神の国に招き入れるために来られたのです。変えられた私たちを通して状況が変えられていくのです。
Ⅲ.いのちのパンを食べて生きる
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」 (ヨハネ6:68~69)
弟子たちはすべてを理解していたわけではありませんでしたが、主イエスのもとを離れませんでした。「神の聖者」の文字通りの意味は「選び分けられた者」ですが、別訳では「生ける神の御子」と訳されており、そのように受け取って良いと思います。いのちのパンを食べるとは、永遠のいのちのことばである主イエスを信じ、そのことばに従って生きて行くことでもあります。
いのちのパンであるキリストを食べるとは、その十字架の死と一つにされて(同化して)生きていくことを意味しています。聖書によれば救い主を信じた私たちの古いいのちはすでに十字架につけられて死を宣告され、今ある私たちは新しいいのちにつながれて生きているのです。いのちのパンを食べるとは日々それを自覚して生きていくことなのです。すでに死んでいる者をもう一度殺すことはできません。
主イエスは罪のない方でしたが、私たちを罪から解放するために黙って十字架にかかりました。主イエスは神の力を持っていましたが、十字架から逃れるためにそれを使うことをしませんでした。主イエスは罪のない方でしたが、私たちを義(無罪)とするためにご自身が罪(有罪)となられたのです。(参照 Ⅱコリント5:21)
さて、いのちのパンである主イエスを食べた者たちがどのように生きるべきかを聖書は私たちに教えています。私たちは主イエスのことばを信じ、それに従うときに自由にされるのです。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
(ルカ4:18~19 参イザヤ6:11~12)