わたしもあなたを罪に定めない

◆ヨハネの福音書8章1節~11節

8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、 
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは(まるで聞こえなかったかのように)身をかがめて、指で地面に書いておられた。 
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、(彼らひとりひとりの罪を)地面に書かれた。 
8:9 彼らはそれを聞くと、(良心のとがめを感じて)年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、(最後の一人までいなくなった。)イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たち(あなたをとがめる者たち)は今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」 (ヨハネ8:1~11)

※多くの聖書学者は「ヨハネの福音書の7章53節から8章11節はヨハネの福音書にはもともと含まれていなかったが、実際に起こった出来事である。」と考えています。

Ⅰ.律法学者とパリサイ人

律法学者とパリサイ人たちは、主イエスを訴える口実を得るために、姦淫の現場で捕らえてきた女を利用したのです。当時死刑を執行する権威を持っていたのはローマ政府だけでした。主イエスが石打の刑を認めるならば、主イエスの評判を落とすことができますし、ローマ政府の権威に逆らったかどで訴えることができます。一方で、女を許すならば、モーセの律法を破る者として訴えることができると企んでいたのです。

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1.宗教指導者たちの動機

宗教指導者たちを動かしていた動機は、主イエスに対するねたみでありまた敵意でした。律法の字面に従うことには熱心でしたが、自分自身の姿も、神がどのような方であるかも理解していませんでした。律法を学び律法を教えている彼らが悔い改めて父なる神との関係を持とうとしないこと、また神を知ろうとする他の人々の妨げになっていることを主イエスは厳しく責められたのです。

2.宗教指導者たち

宗教指導者たちの最大の問題は、自己正当化(自己義認)でした。自分たちの悪い動機は棚に上げて、他の人の悪(罪)を指摘し厳しく処罰しようとしているのに、自分自身の悪(罪)に対しては全く盲目であったのです。

◎人間の正しさは、神様との関係を阻んでしまいます。

Ⅱ.姦淫の女 

どういうわけか、この場面には姦淫の現場にいたはずの相手の男性は出てきません。この女性は、たまたま現行犯で捕まえられたと考えるより、ユダヤ人の指導者たちがあらかじめ仕組んだ罠にはめられて連れてこられたと考えるほうが自然だと解釈する聖書学者もいます。いずれにせよ、この哀れな女性は、イエスを訴える道具として利用されたのです。主イエスの前に連れ出されてきた女性は恥と屈辱、恐怖の中でさらし者にされていました。律法の下では、責められても当然、石打にされても仕方のない罪深い女でしたが、主イエスは彼女を訴える者たちと彼女の間に立たれたのです。

◎罪は私たちの人生に恥と恐れと死をもたらします。

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Ⅲ.主イエス

◎神の御子である主イエスだけが、人間を裁き(罪に定め)、罪を赦す権威を持っておられるのです。

1.弁護される方 

宗教指導者たちが「姦淫の罪を犯した女を石打にするのかしないのか」と主イエスを問いつめようとしているときに、主イエスは彼らの声にはまったく耳を貸さずに地面に黙々と何かを書いておられました。英語の聖書(NKJV)では、「イエスはまるで聞こえなかったかのように身をかがめて、指で地面に書いておられた。」と訳されています。主イエスは、訴える者たちの声に耳を傾けようとはされなかったのです。

◎主イエスは私たちを訴える者の前に立ってくださいます。

2.罪を示される方

黙って地面にものを書いておられた主イエスは訴えることをやめない宗教指導者たちに対して、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と語られました。 「あなた方は石を投げることできるほど正しいのですか?」と問いかけられたのです。古い写本のあるものには、次のように書かれています。

彼らはそれを聞くと、良心のとがめを感じて年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、最後の一人までいなくなった。イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
主イエスのことばによって罪が示されたのです。立場が逆転しました。今まで告発していた者たちが、自分たちの罪(醜い心の状態)を示されて何も言えなくなってしまったのです。

◎自分の罪を知ることが恵みに生きることの第一歩です。

3.裁かれない方

ヨハネの福音書3章17節にこうあります。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」主イエスは、自分の正しさを主張する宗教指導者たちとは厳しく対決されましたが、自分の罪深さを知っている人々に対しては神の恵みを示されました。人を罪に定める権威は神の御子であるイエス・キリストにだけ与えられています。ローマ政府にも、ユダヤ人の宗教指導者にも与えられていません。罪に定め、罪を赦す権威を与えられている主イエスが「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われたのです。

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◎私たちは無罪放免とされ、恵みの中に生かされています。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16~17)

◎自分の正しさを捨て、罪赦された者として恵みの中に生きて行きましょう。

◇アーミッシュの赦し

2006年10月、チャールズ・カール・ロバーツはペンシルヴァニアのアーミッシュ学校に押し入り、女生徒5人を射殺、さらに5人に重傷を負わせてから自殺した。俗世間から隔絶しているように思われていたオールド・オーダー・アーミッシュのコミュニティで、このような犯罪が(外部者によってではあるが)発生したことは全米に大きな衝撃を与えました。

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しかし、その後に起こったことは世間にもっと大きな衝撃を与えました。事件が発生したその日に、アーミッシュの人々がすぐさま犯人の家族を訪ねて「あなたたちには何も悪い感情を持っていませんから」「私たちはあなたを赦します」と伝えたのです。

彼らはこう考えました。犯人の遺族(妻エイミーと子供たち)は自分たち以上に事件の犠牲者である、つまり、夫(父)を失った上に、プライバシーも暴かれ自分の家族が凶行を行なったという世間の非難の中を生きて行かなければならない。

事件の二日後に、被害者の遺族がいきなりレポーターからマイクを突きつけられて「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか」と訊ねられた際に、「いいえ」とこたえました。
「もう赦しているのですか?」
「ええ、心のなかでは」
「どうしたら赦せるんですか?」
「神のお導きです」(78~79pp)
「あの人たち(ロバーツの未亡人と子供たち)がこの土地にとどまってくれるといいんですが。友達は大勢いるし、支援もいっぱい得られる。」(あるアーミッシュの工芸家。79p)

殺された何人かの子の親たちは、ロバーツ家の人たちを娘の葬儀に招待した。さらに人々を驚かせたのは、土曜日にジョージタウン統一メソジスト教会で行なわれたロバーツの埋葬では、75人の参列者の半分以上がアーミッシュだったことである。近隣の牧師エイモスもその一人だったが、単にそうするものだと思ったからだと言う。
「自然と、行かなくちゃ、という話になったんです」とエイモスは言った。
ロバーツの葬儀の前日か前々日、我が子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちも何人かが墓地へ出向いて、エイミーにお悔やみを言い、抱擁している。葬儀屋は、その感動的な瞬間をこう回想する。

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「殺されたアーミッシュの家族が墓地に来て、エイミー・ロバーツにお悔やみを言い赦しを与えているところを見たんですが、あの瞬間は決して忘れられないですね。奇跡を見てるんじゃないかと思いましたよ。

この「奇跡」をまじかで見たロバーツの家族の一人は、こう述懐する。
「35人から40人ぐらいのアーミッシュが来て、私たちの手を握りしめ、涙を流しました。それからエイミーと子供たちを抱きしめ、恨みも憎しみもないと言って、赦してくれました。どうしたらあんなふうになれるんでしょう。」(80~81pp)

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