真理はあなたがたを自由にする

ヨハネの福音書8章

8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
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8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

◎8章12節から8章58節の背景

主イエスは、ご自身が天の父によってこの暗闇の世界に遣わされたいのちの光であると宣言されます。このいのちの光が差すところでは、人間の本当の姿があらわにされるのです。主イエスはだれもさばくことはなさいませんでしたが、人々の隠れた性質があらわにされました。自分の罪を認め、悔い改めてメシヤを受け入れる人々がいる一方で、あくまでも自分の正しさを主張してメシヤ拒絶し、迫害する人々がいたのです。

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Ⅰ.わたしのことば

主イエスは、ご自分を遣わされたのが天の父であり、天の父がご自身とともに働かれ、ともに語っておられると宣言されます。これを聞いたパリサイ人たちは腹を立てます。主イエスが天からのメッセージを語られると受け入れる人々と拒絶する人々との間でいつも分裂が起こったのです。主イエスはその信じた人々に、「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」と語られました。主イエスは、「わたしはいのちの水を与える者です」「わたしはいのちのパンです」「わたしはいのちの光です」と語られました。「わたしのことばとにとどまる」とは、救い主が与えるいのちの水を飲み、いのちのパンを食べ、いのちの光の中を歩むということではないでしょうか。

主イエスは、「わたしに従いつづける人、とどまり続ける人が、本当の弟子なのですよ」と語られたのです。ところが従っているように見えた、信じているように見えた多くのユダヤ人たちが8章の終わりで主イエスから離れ、あるいは迫害するようになります。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」と主イエスが語られたことばにつまずいたのです。「わたしはいる」とはアブラハム、イサク、ヤコブの神がモーセに名乗られた時に語ったことば「わたしは、『わたしはある。』という者である。」を連想させたからです。(出エジプト記3:14)ユダヤ人たちにとってはナザレのイエスが自分が神であると宣言しているように聞こえたのです。主イエスが弟子たちに求められた「従う」とは「従いつづける」ことであり、「とどまる」とは「とどまり続ける」ことだったのです。

Ⅱ.真理なる方

国会図書館の玄関に「真理はわれらを自由にする」という言葉が彫りこまれています。聖書(ヨハネ8:32)から引用されたものだと思いますが、この真理は哲学的(知的)な真理を表しているのでしょうね。本家本元である同じヨハネの福音書(14:6)の中で主イエスは「わたしこそが真理である」と宣言しています。真理と訳されているギリシャ語はアレテイアです。真理と聞くと上のように哲学的な真理を思い起こすかも知れませんが、アレテイアは「真実」「まこと」とも訳されています。「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と語られた主イエスは語られました。それはご自身を通して真実な神の愛と義が完全に現されたからです。この真理は頭で学ぶことはできません。私たちは真実なる方、主イエスと共に生きるように召されているのです。

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Ⅲ.ほんとうの自由

自由にすると翻訳されたことばのもともとの意味は「奴隷状態から解放する」という意味です。そのことばを聞いてユダヤ人たちは「だれの奴隷になったこともない。自分たちはアブラハムの子孫だから神の前に自由なのだ。」と言って反発します。自分自身の罪の奴隷であるという自覚がなかったのです。主イエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」と語っておられます。主イエスが語られた「ほんとうの自由」とは「霊的な自由」のことであり、またそれに対して「見せかけの自由」があることを示唆しています。J・S・ステューワートというスコットランドの聖書学者が次のように語っています。「キリストの外側に自由があるかのように見えますが、実はその自由らしきものは束縛なのです。」

◇燈台守

小さな孤島で長年燈台守として生活していた人がいました。ある時、この島を訪れた旅行者が、この燈台守に質問しました。「ここに住んでいて囚人のような気持になりませんか。」旅人の目には灯台守が島流しになった罪人のように映ったのでしょう。旅人の失礼な問いかけに、即座に返事が返ってきました。「私が最初に人を助けたその時以来そのようなことは一度もありませんよ。」灯台守は自分が束縛されているとはまったく感じていませんでした。自由だったのです。なぜでしょうか。彼が自分の仕事に生きがいを感じ、自分の存在に価値を見出していたからです。ほんとうに自由であるかどうかは私たちの内面にかかっているのです。

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キリスト(メシヤ)は罪の奴隷となっている私たちを解放するために来てくださったのです。しかし、奴隷であることに気付かない(認めない)人々を解放することはできません。奴隷は自分で自分を開放することができないからです。救われた私たちには神の子どもとして生きる自由が約束されています。しかし、何かに捕らわれているならば、その自由を味わうことができません。霊的な束縛から解放され自由に生きる唯一つの方法は、主であるキリストに従い、そのことばにとどまることだと聖書は教えています。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
(ルカ4:18~19参イザヤ6:11~12)