◆ヨハネの福音書9章1節~17節
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」 9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。 9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」 9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。 9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
◎物語りの背景
イエス・キリストは光としてこの世に来られました。光は物事の実情を明らかにします。主イエスの訪れるところではいつでも人々の隠れた姿があらわにされました。主イエスが真理のことばを語るときに、自分の罪を認めて救い主を受け入れる人々と自分の正しさを主張して救い主を拒絶する人々のそれぞれの姿が明らかにされたのです。9章でも一人の盲人の癒しをとおして同じことが起こります。
Ⅰ.光なる方
生まれつき盲目の物乞いを主イエスは奇跡的に癒されます。この男は救い主によって視力を与えられ、闇の世界から光の世界に移され生まれてはじめて周囲の様子を見ることのできるようになったのです。それだけでなく、彼の霊的な目も開かれて行きます。自分を癒してくださった方が、神から遣わされた人であることを、そして最後にはこの方こそ救い主であることを理解するのです。主イエスは自分の正しさを主張していた宗教指導者たちにはご自身を隠され、自分の無力を知りそれを認めていたこの物乞いにはご自身をあらわされましたのです。

Ⅱ.霊的な視力
霊的に盲目である時に人は二つのものが見えなくなってしまいます。自分の罪ある姿と、その自分を救うために来てくださった主イエスの姿です。自分の正しさを主張していたパリサイ人たちは、自分たちの実情にも、目の前にいる方が救い主であることにも気付かなかったのです。自分の正しさが彼らを盲目にしていたのです。一方、自分の力で自由になることのできない自分の無力を知っていた盲目の物乞いは、癒しを通して霊的な視力も与えられ、主イエスがどのような方であるかを見出すようになります。それは彼が自分の無力を認めて救い主なる方に「教えてください」と求めたからです。
救われて神の子とされている私たちですが、私たちの霊的な視力はどれほど回復しているでしょうか?自分の正しさが当然であるかのように主張していないでしょうか?自分で自分を自由にすることのできない無力なものであることをどれだけ自覚しているでしょうか?目の前にいる主イエスが神の恵みと愛に満ちた方であり、私たちを自由にする力を持った方であることをどれほど知っているでしょうか?
Ⅲ.神のわざがあらわれるために
私たちがしなければならいことは、自分の正しさを捨て、自分の罪ある姿と無力を認め、私たちの目を見えるようにしてくださる方のところに進み出て行くことです。そうするならば、愛と恵みと力に満ちた助け主の姿をも見ることができるようになるのです。この方だけが私たちの目を開き、自由にしてくださることのできるお方、私たちを通して神のわざをあらわしてくださるお方なのです。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ9:2)
◇メイベル
トム・シュミットと言う一人のクリスチャンの青年が毎週、ある介護施設を訪問してそこに収容されている人々を励ましていました。あるとき(その日は母の日でしたが)それまで行ったことのない病棟の廊下を歩いて、すれ違う人々に花を手渡しながら励ましの言葉をかけていました。トムの見た多くの人は無気力な表情で車椅子やカートに乗っている人ばかりでした。どうやら状態の悪い人ばかりを収容している階のようでした。彼は廊下のつきあたり近くに、車椅子に乗った老婦人を見つけました。彼女は視力を失っており、片方の耳に大きな補聴器を装着していて耳もよく聞こえないことが分かりました。聞いたところでは、このメイベルという身寄りのない女性は、ベッドに横たわったまま、病院のベッドでずっと一人ぼっちで過ごしてきたことが分かりました。

メイベルを見たときにとても返事ができそうな状態には思えませんでしたが、トムはこの彼女に一輪の花を手渡しました。「母の日おめでとう。花をどうぞ。」すると驚いたことに、この老婦人は花を受け取ると自分の顔に近づけて匂いをかごうとし、しゃべったのです。「ありがとう。とても素敵ね。でも、ほかの人にあげてもいいかしら。私は盲目なので、見ることができないから。」トムは、「もちろんです。」と答え、彼女の車椅子を押して、意識のはっきりしている人を探して、そこまでメイベルを連れて行きました。彼女は、その人に向かって花を差し出してこう言いました。「さあどうぞ。イエスさまからのプレゼントですよ。」この時、トムは彼女がただものではないことに気付いたのです。
メイベルは仲良くなったトムに自分の生い立ちを話しました。母親がなくなった後、一人で小さな農場を切り回していましたが、25年前に視力を失ってからはずっとこの介護施設で暮らしていたのです。トムは毎週、メイベルを訪問するようになります。初めのうち彼はメイベルを励ますためにそうしていたのですが、しだいに彼女に惹かれて訪問するようになったのです。トムはメイベルに会いに行くときは、彼女のことばを書き留めるためにペンとノートを持参するようになりました。
あるとき、トムは人の助けがなければベッドの上から少しも動けないメイベルがいつも何を考えているのか疑問に思い、それを率直に彼女に聞いてみました。「メイベル、いつも何を考えながらここに横たわっているの?」彼女はこう答えました。「イエスさまのことを考えているのよ。」トムは自分がメイベルの状況に置かれていたら、5分だってイエスさまのことを考え続けるなんてできないと思ったトムはまた質問しました。「イエスさまのことについて何を考えているんだい?」メイベルはこう答えたのです。
「イエスさまがこれまで、どれだけ私に良くしてくださったかを考えてるのよ。だって本当ずっと良くしてくださったのよ。・・・私はそんなに多くを持たなくてもいいの。簡単に満足できてしまう人間だから。・・・ほとんどの人は、私が何を考えているかなんて、たいして気に留めないし、私のことを時代遅れだと思っているけど、別にかまわないの。イエスさまがいてくださればそれでいい。イエスさまが私のすべてなの。」
そしてメイベルは古い賛美歌を歌い始めました。
イエスこそ私のすべて 私の命、私の喜び、私のすべて
日々の力 イエスなしでは私は倒れてしまう
悲しいときはイエスのもとへ
イエスほど私を元気づけてくれる方はいない
悲しいときに喜びを与えてくれる イエスは私の友
日々の力 イエスなしでは私は倒れてしまう
悲しいときはイエスのもとへ
イエスほど私を元気づけてくれる方はいない
悲しいときに喜びを与えてくれる イエスは私の友