◆ヨハネの福音書9章35節~41節
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
◎物語りの背景
9章は主イエスが安息日になされた奇跡的な癒しの物語です。主イエスを取り囲む主要な登場人物は、目が見えるようになった物乞い、宗教指導者たちに呼び出された彼の両親、そして主イエスを激しく攻撃する彼ら宗教指導者たちです。これらの人々は主イエスのなされた奇跡に対して異なる反応を示します。霊的な目が開かれるとは何を意味するのかいっしょに学びたいと思います。

Ⅰ.プライドがもたらす恐れ
生まれつきの盲人の目が開かれるという「奇跡」を目の当たりにしても、パリサイ人たちはメシヤであるイエス様を信じようとしませんでした。そればかりか激しく攻撃し拒絶しました。主イエスは彼らが何よりも重んじる聖書に預言されている方なのですが、あくまでも自分たちの正しさを主張し続けたのです。自分たちの正しさ(この場合宗教的な権威)が脅かされることを恐れたのです。私たちのプライドは「自分の正しさ」を主張するのですが、そこには常に恐れが付きまといます。パリサイ人たちは結局自分たちの信じたいものを信じ、信じたくないものを信じようとしなかったのです。聖書(モーセ)の権威を主張していながら、自分たち自身を聖書よりも上においていたのです。プライドは恐れをもたらし、私たちから霊的な視力を奪い神が用意された救いから私たちを遠ざけてしまいます。
Ⅱ.この世がもたらす恐れ
一方、癒された人の両親は、自分たちの息子の目を開いた人がただの人ではないことが分かっていたと思うのです。ところが、ユダヤ人たちを恐れて沈黙してしまいます。この癒しは自分たちの家族にとって大きな祝福であったはずなのに、二人はその祝福をもたらした方をそれ以上知ろうとしませんでした。彼らが所属する社会、権威、周囲から拒絶されることを恐れたのです。人の目、人の評価を恐れるときに、私たちはそれ以上、神を求めようとはしなくなります。周囲と同じでいることのほうが安全に思えるからです。しかし、主イエスはこの世界が悪い者の支配する暗闇の世界であり滅びの中に置かれていると指摘しています。この世がもたらす恐れは私たちから霊的な視力を奪い、神の国にある豊かな恵みと祝福を見えなくしてしまいます。
Ⅲ. 私はいま見えるのです。
主イエスによって癒されたこの男は、自分の目が見えるようになったこと、癒されたことをユダヤ人指導者たちの前で大胆に告白します。それがまた彼らをいらだたせることになるのですが、この男には彼の両親と違って恐れるものが何もありませんでした。「私はいま見えるのです。」と自分の身に起こったことを単純に証言したのです。ところが信じようとしない指導者たちはなんとか否定的な証言をさせようとこの男に圧力をかけるのです。しかし攻撃すれば攻撃するほど、彼はますます大胆になって証言を続けます。指導者たちの執拗な攻撃に全くひるむことなく、彼は「(私は)ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」と宣言するのです。ついさっきまであわれな盲目の物乞いであった男が、たった一人で宗教指導者たちと堂々と渡り合っているのです。むしろ彼らを追い詰めているようにさえ見えます。男を支えていたものは誰にも否定することのできない彼自身の経験でした。そして、とうとう「(私をいやされた)あの方は預言者です」という告白までしているのです。実際には主イエスは預言者以上の方でしたが、これは主イエスが神から来た方であることを認めない指導者たちに真っ向から挑戦することでありました。
Ⅳ.主よ。私は信じます。
結局、この男はユダヤ人指導者たちから追放されてしまいますが、主イエスは彼を探し出し彼のもとに来てくださったのです。そして「あなたは人の子を信じますか。」と問いかけられます。その問いに対して、彼はためらいなく「主よ。私は信じます。」と告白します。「人の子」とは旧約聖書に預言されているメシヤの別名です。信じることと、告白すること、そして従うことは一体なのです。主イエスを主(救い主)として信じ、告白し、従って行くときに、私たちの失われた霊的視力は回復して行くのです。何が見えるようになるのでしょうか。イエス様の姿を通して「天の父」の本当の姿が見えるようになります。イエス・キリストの十字架の犠牲を通して、天の父がどれほど私たちを愛しているかを知るようになります。また、イエス・キリストを信じる私たちを通して現される神の偉大な力を経験するようになるのです。
私たちの霊的視力が回復するならば、イエス・キリストを通して、
天の父がどれほど恵みと愛に満ちた良き方であるかを理解するようになります。
また、イエス・キリストが私たちに送られた聖霊を通して、
私たちのうちに働く大きな神の力を経験するようになります。
そして、イエス・キリストの十字架の死と復活の本当の意味を理解するようになるのです。