羊飼いの声

◆ヨハネの福音書10章1節~6節

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。 
10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。 
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。 
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。 
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」 
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。

◎羊飼いの声

10章の中でイエス様はご自身と私たち信じるものとの関係を牧者(羊飼い)と羊との関係に例えて教えておられます。そこには導く者と導かれる者、養う者と養われる者、守る者と守られる者との親密な関係が語られています。その関係の土台となっているものは、イエス様の私たちに対する無条件の愛です。羊は迷子になりやすい、また外敵から自分を守る能力のない無力な動物ですが、一つだけ優れた能力が与えられているとイエス様は教えています。それは羊飼いの声を聞き分ける能力です。

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Ⅰ.主はみことばを通して語られる

私たちの牧者は羊の群れにまたそこに属する一匹一匹の羊に神のことばである聖書から語られます。聖書は神様からのラブレターです。そこには私たち人間とこの世界を造られたご自身がどのような方か、またご自身のパートナーとして創られた私たち人間がどのような存在なのかが書かれています。ヨハネの福音書の1章には、キリストは神のことばであったと記されてあります。イエス・キリストご自身が父なる神から送られたラブレターであったと考えることができます。なぜなら、父なる神はキリストの犠牲の死を通して人間に対するご自身の愛の深さを示されたからです。聖書は私たちの父なる神が義なる方であること、また恵みと愛に満ちた方であることを教えています。そして、私たち人間が創造主である神によって尊い存在として創られたこと教えています。

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「羊のためにいのちを捨てる」と語られたキリストの十字架の犠牲を通して、神さまと私たちとの間に和解がもたらされ、私たちは神との親密な関係の中に招き入れられます。そしてその関係の中にとどまるなら、キリストの復活の力によって、私たち自身が回復され勝利者として生きていくことができると聖書は約束しています。

◇「わたしはいのちの芋です。」
ソロモン諸島で聖書翻訳の仕事をしていた宣教師がヨハネの福音書の一節「わたしはいのちのパンです。」をどう訳したらよいか悩みました。原住民たちは普段の生活の中でまずパンを食べないからです。彼らが主食としていたのは芋です。イエス様が「わたしたがいのちのパンです。」と語られたのは、中東に住むユダヤ人たちにとってパンが主食だったからです。神のことばであるイエス・キリストを日々食べることによって私たちの霊的いのちが生かされるのです。その宣教師は原住民たちが聖書の語っている真意を理解できるように「わたしはいのちの芋です。」と翻訳したのでした。

Ⅱ.主はあらゆる状況を通して語られる

私たちの牧者は私たちの置かれている状況を通して私たちに語られています。主は平安の中で私たちに語られ、また時として、嵐のような好ましくない状況の中で私たちに語られます。戸惑い、恐れ、不安にかられるような状況の中であっても、私たちが学ぶべきものが何かあるのです。信頼を学ぶためには信頼が試されます。恵みの中に生きることを学ぶために、自分の力ではどうにもならない状況に置かれるかもしれません。赦しを学ぶためには赦しがたい人のそばに置かれるかもしれません。それは全て私たちを良き牧者であるキリストに似たものと造り変えるためなのです。また、主は沈黙を通しても私たちに語られる方です。それは私たちがご自身を捜し求める者となるためであると聖書は語っています。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
わたしはあなたがたに見つけられる。(エレミヤ書29:11~14)

どんな状況に置かれても良き牧者である私たちの主に頼り頼むこと(信頼すること)を学ぶならばそこを通過することができるのです。

Ⅲ.主は聖霊によって語られる

私たちの牧者は私たちの内に住まわれる聖霊を通して私たちに語られます。私たちもまた聖霊を通して主に語りかけるのです。聖霊は私たちの祈りを正しい方向に導かれる執り成し手であり、また力ある助け主です。神の子とされたクリスチャンは聖霊との親しい交わりの中に生きるように招かれています。どんな関係も心の通う会話がなければよそよそしいものとなり、最後には冷え切ってしまいます。生き生きとした楽しい関係と言うものは、それが夫婦関係であれ親子関係であれ、友人たちとの関係であれ、いっしょに共感できるものがどれだけあるかにかかっていると思うのです。毎日の生活で共感できる部分が多ければ多いほど、そこには親密さが生まれてきます。私たちと聖霊との関係も同様です。私たちが神様との親密な関係を持ちたいと願うのであるなら、人間同士の関係と同じようにそこに会話がないとなりません。ところが私たちと神様との関係は一方通行になりがちなのです。多くの祈りは、一方的に自分の必要を訴えることで終わってしまいます。聖霊の語りかけを聴くことを妨げている第一の障害は無関心です。他のものに注意が奪われてしまい、身近にいる聖霊の声に耳を傾けようとしないのです。二つ目の障害は私たちが頑固に握り締めて離そうとしない自分自身の願望です。最初から結論を握っているので聖霊の静かな語りかけを聞き逃してしまうのです。その二つともが私たちの心の中にある障害です。良き牧者であるイエス様が私たちを愛され、最善のものを与えようとされていることを私たちは知らなければなりません。主の声を聞き、主とともに歩むみ続けることが祝福と恵みの中を生きるただ一つの方法なのです。

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主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
(詩篇23編)