良き羊飼い 豊かに生きるためにⅠ

◆ヨハネの福音書10章7節~18節

10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

◎10章7節から18節

イエス様はご自身を良き羊飼い(良い牧者)として紹介しています。羊飼いたちは、日中は羊たちを牧草地に導いて養い、日が暮れると羊たちを引き連れて安全な囲いの中に戻し休ませます。当時のイスラエルの人々にとっては見慣れた光景でした。「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」(10章3節)とありますが、当時の羊飼いたちは自分の所有する羊、一頭一頭に名前をつけていました。羊飼いは自分の群れの一頭一頭を、愛情をもって養っていたのです。良き羊飼いであるイエス様とイエス様の羊の群れに属する私たち一人ひとりとの関係も同様であると聖書は教えています。イエス様は私たちに豊かにいのちを与えるために来られたと語っています。聖書の教える「豊かないのち」とは何なのか、また、救われた私たちがその「いのち」をいただいて豊かに生きるためにはどうしたらよいのかをいっしょに学んで行きましょう。

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Ⅰ. 羊の門を通って

イエス様は「わたしは羊の門です。」と語っています。囲いの中に出入りするためのたった一つの門という意味です。この門はキリストの十字架の贖いを象徴しています。全ての人に開かれていますが、そこを通って中に入るためには自分の罪を認め、「自分の正しさ」を捨てなければなりません。律法を固く守って自分たちは神の前に正しいと自負していた宗教指導者たちは、イエス様が救いの門(メシヤ)であることが理解できませんでした。人間を最も盲目にしてしまうものが「自分の正しさ」です。羊飼いに率いられた羊たちが朝晩、この羊の門を通って囲いを出入りしていたように、私たちも日々、キリストの十字架の犠牲を思って生きていく必要があるのです。

Ⅱ.豊かに生きるために

イイエス様は、私たちをただ生かすためにではなく、豊かに生かすために来られたと語っています。ここで語られている「いのち」とは「創造主である神様だけが与えることのできる霊的いのち」です。聖書はこれを「永遠のいのち」とも呼んでいます。救い主が与える「いのち」は、神から離れた人間を本来の姿に回復し、生き生きと活かすことのできる「いのち」です。この「いのち」の中に豊かに生かされるための秘訣を聖書は教えています。

1.良き羊飼いの犠牲を覚えて生きる

ここで、イエス様は罪のないご自身の「いのち」を捨てられると5回語っています。私たちが「いのち」を得て生かされるために、キリストは十字架の上で私たちのために「いのち」を捨てられたのです。それが贖いです。救い主が代価を支払われたのです。私たちのために「いのち」を捨てられた方こそ、私たちにとっての唯一つの「救いの門」なのです。キリストが代価を支払われたのは、私たちの救いのためであると同時に、私たちの生活、関係、全ての領域が回復されるためでもあるのです。私たちのために「いのち」を捨ててくださった良き羊飼いである主だけが私たちの人生に神との和解をもたらし、私たちを回復しいやすことのできるお方なのです。

2.良き羊飼いの守りの中に生きる

主イエスは愛するご自分の羊を守るために盾となってくださる方です。私たちが主の守りの中に生きることを望むのならば、聖書が教えているように、キリストのことばとキリストの愛にとどまることが求められます。そこにとどまっている限りは、私たちは安全なのです。でも、それは試練や迫害から逃れられるということではありません。神さまの守りとは、どんな状況にあっても私たちの霊が神の平安の中にあって守られるということです。神の平安の中を生きることが主と共に勝利者として生きていくことの秘訣でもあります。

3.良き羊飼いに養われて生きる

主イエスは愛するご自分の羊を最善のものをもって養われます。養われためには、主が与えられるものを感謝して受け取って行くことが求められます。養うとはただ単に私たちの必要を満たすということではありません。なぜなら養うとは私たちを成長させることを意味するからです。私たち一人ひとりを、愛情をもって造られた父なる神は私たちが成長してキリストの姿に似たものとなることを願っておられるからです。主から来ているものであるならば、たとえそれが私たちの目に好ましいものでなかったとしても私たちを成長させる糧となるのです。

4.良き羊飼いに導かれて生きる

主イエスは愛するご自分の羊を正しい道へと導かれます。導きの中に生きようとするならば、主が備えられた最善の計画があることを信じ、積極的に従って行くことが求められます。主は私たちを力ずくで引っ張って行かれるような方ではありません。私たちが喜んでついてくることを願い、待っておられるのです。良き羊飼いである主に対する信頼と感謝、主が私たち一人ひとりに最善のご計画を備えておられることを信じる信仰、それが私たちの力となるのです。私たちが感謝して従って行くときに、私たちの主が良き羊飼いであること、私たちが守りの中に活かされていること、最善のものをもって養われていることをさらに深く理解できるようになるのです。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。(ヨハネ10:27)

まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。―― (エゼキエル34:11~15)