いのちの主

◆ヨハネの福音書11章

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。 
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。 
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」 
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」 
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。 
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

◎ラザロのよみがえり

奇跡が書かれているので聖書を信じることができないと言う人々がいる一方で、奇跡が記されているからこそ聖書を神のことばとして信じる人々がいるのです。聖書の神様は人間と自然界を創造され支配されているお方であり、人間の理解を超えた超自然的な方法で働くことのできるお方です。聖書にはさまざまな奇跡の記事が記されていますが、それらの奇跡は旧約聖書から新約聖書を通していくつかの時代に集中して起こっています。救い主が登場した時代もその一つです。キリストは病をいやし、悪霊を追い出し、奇跡をなし、そして神の国の福音を語られました。イエス・キリストの語られた福音はいつも奇跡とセットになっていたのです。その奇跡の中には死人のよみがえりがあります。福音書の中でイエス様は、3人の死人をよみがえらせておられます。その一人がイエス様の愛されたラザロです。ラザロのよみがえりの奇跡からいっしょに学んで行きましょう。

Ⅰ.神の栄光を現すために

イエス様はすぐには行かれなかったのは、神の栄光を現すためでした。「愛しておられたので、すぐに駆けつけた。」というなら分かりますが、「愛しておられたので、すぐには行かなかった。」とはどういうことでしょう。イエス様は、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」と、語っておられます。聖書で語られている「栄光」は、威信や栄誉の重さ、あるいは高さを意味します。死の力をも制する神の権威を現すためにイエス様は遅れて来られたのです。なぜなら、それが神の栄光を現す機会となったからです。私たちも「主よ。すぐここに来てください!」訴えることがないでしょうか。しかし、「私たちの時」と「神の時」とは異なるのです。私たちの期待に反することであっても、神の時、神の方法の方がはるかにすぐれているのです。そこに神の栄光を現してくださるからです。

別居を考えていたある友人夫婦が奥さんの大病を通して、夫婦関係が改善されたことを話してくれました。「死ぬかもしれない」状況に置かれたときに、いままで争っていた問題は非常に小さなものとなり吹き飛んでしまったのです。大きな危機を通して、結婚生活の危機を乗り越えられたと言うのはとても不思議なことです。幸い手術のあと回復し、今は仲良く暮らしています。奥さんは「あの時、病気になって良かった。」と話していました。

Ⅱ.いのちの主

イエス様はすぐには行かれなかったのは、ご自身がいのちの主であることを示すためでした。マルタとマリヤは、イエス様がいやし主であること知っていましたが、イエス様はそれ以上のお方です。神の国の王は死の力さえ打ち破る権威を持ったお方なのです。それはマルタとマリヤの二人の姉妹にとって、人間的な望みを全て絶たれてしまうことを意味していましたが、イエス様はあえてそのような状況の中に二人を置かれたのです。

11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。

11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

イエス様が到着した時には、ラザロは死んで4日もたっており、人間的な望みはまったく絶たれた状況でした。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と、マルタとマリヤはまったく同じことばでイエス様に訴えています。しかし、兄弟の死をあきらめて受け入れているマルタに対して、マリヤは受け止めきれずにその嘆きをイエス様にぶつけているようにも見えます。

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重い病気になったり、年をとって衰えを感じたり、あるいは大きな事故にあったりでもしないと「自分の死」を現実のものとして考えることはなかなか難しいと思います。しかし、他にどんな問題があったとしても、私たち人間にとって「死」よりも大きな問題はありません。なぜなら、誰もそれを避けることができないからです。死が訪れるときに、生きている間にしてきた事すべてに、突然ピリオドが打たれてしまうのです。

しかし、聖書は死の向こうに永遠に続く世界があると教えています。その世界のどこで生きるかが人間にとって一番大きな問題なのです。この人生をいのちの主である創造主との関係の中に生きているのならば、その関係は死の向こうでも永遠に続き、持っていないのならば、いのちの主である創造主との関係をそこでも失ってしまうと聖書は警告しています。

死の束縛の中に置かれているすべての人に向かって、いのちの主である救い主は次のように語りかけておられるのです。

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

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