◆ヨハネの福音書12章1節~8節
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
◎ベタニヤのマリヤ
ベタニヤ村はイエスさまにとって特別な場所でした。なぜならそこにイエスさまの愛された、二人の姉妹マルタとマリヤ、その兄弟ラザロが住んでいたからです。彼らの住んでいるこの村はイエスさまにとって心の安らぐ場所であったようです。イエスさまをいつも歓迎して迎え入れる人々がいたのです。ベタニヤはエルサレムから3キロほど離れたオリーブ山のふもとにある村です。十字架にかかる前の最後の一週間、イエスさまはベタニヤとエルサレムの間を往復して過ごされました。ヨハネの福音書11章、12章はイエスさまとイエスさまの愛されたこの三人の兄弟との関係を中心に物語が展開しています。この箇所は、マリヤの純粋な信仰とそれを喜んで受け止められたイエスさまとの関係にフォーカスが置かれて書かれています。マリヤの信仰からいっしょに学びましょう。

Ⅰ.マリヤは主との関係(時間)を何よりも大切にした
イエスさまはこのベタニヤ村の二人の姉妹を愛しておられました。福音書の記事の中で、姉マルタがいつも働き者の奉仕者として登場するのに対して、妹マリヤは主の親しい話し相手として登場します。ともにイエスさまの友人でしたが、それぞれ性格や愛情表現の方法が違っていたと考えるべきでしょう。マリヤはルカの福音書10章にも登場します。イエスさまの足もとにすわって、そのことばに耳を傾けていた様子が書かれています。接待の手伝いをしない妹に不満をもらす姉のマルタに対して、イエスさまはこう語ってマリヤを擁護しています。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:42)マリヤは、他のいろいろなことよりも、イエスさまとともに過ごす時間を優先して選んだのです。そのマリヤのこころをイエスさまは喜ばれたのです。
働き(奉仕やプログラム)も大切です。しかし、何よりも大切なのは主との親しい関係です。イエスさまは、私たちが働き人である前に、ご自身の語ることばに耳を傾ける友人であってほしいと願っておられるのです。何でも話せる関係を求めておられるのです。主は友である私たち一人ひとりと時間を過ごしたいのです。
Ⅱ.マリヤは主に精一杯の感謝を現した
ヨハネの福音書12章のこの場面で、マリヤは大胆な行動をとって周囲を驚かせます。しかし、それは彼女の主に対する感謝の現れでした。300デナリの高価な香油をイエスさまの足に塗って、自分の髪の毛でぬぐったとあります。1デナリは当時の一日分の労働賃金に相当する金額です。10か月分の労賃に相当する高価なものを使い切ってしまったのです。ここではイスカリオテのユダがそれを見て非難したことが書かれていますが、他の弟子たちにとっても理解できない、無駄に見える行為でした。(マタイの福音書26節で弟子たちが憤慨した様子が書かれています。)また、マリヤは主の足に注いだ香油を自分の髪の毛でぬぐったとありますが、これも他の人たちのひんしゅくを買うような行為であったと思います。周囲の人々は憤慨し、あるいは当惑してこの光景を見ていましたが、イエス様だけは別でした。この行為が主を愛するマリヤの自然な動機から出た深い感謝の現れだったからです。イエスさまはそのマリヤの純粋な動機を喜ばれたのです。

イエスさまの評価と人間の評価とは違います。人間は目に見える行為を自分たちの常識で評価しますが、主はその人の動機をご覧になって評価されるからです。マリヤにとって、自分の兄弟ラザロを生き返らせてくださった救い主に300デナリの香油を注ぐことは彼女のできる最高の感謝の表現、礼拝であったのです。そして、それが決して無駄にはならないことをイエスさまはご存知でした。なぜなら、主がその行為を喜ばれたからです。
それが時間であれ、お金であれ、労力であれ、私たちは自分が大切だと感じるものに自分の持っているものをささげます。イエスさまが目を留められたのは、高価なナルドの香油ではなく、それをささげたマリヤの純真な信仰でした。イエスさまはマリヤの中に真の礼拝者としての姿を見たのだと思います。それによって救い主は慰めを受け、励まされたのです。私たちは何かをささげることによって礼拝者となるのではありません。真の礼拝者はなにかをささげずにはいられない人々なのです。私たちの感謝に満ちたこころこそが主にとっての最高のささげものなのです。
Ⅲ.マリヤは主のこころを深く理解した
マリヤは自分の正直な気持ちをストレートにイエスさまにぶつけることのできる女性だったと思います。彼女はまた12弟子たち以上にイエスさまのこころを理解していた女性でもありました。イエスさまはあがないのミッションを実現するために、すべての人の罪を負って、まもなく十字架にかけられようとしていました。しかし、そばにいる弟子たちは主がどこに向かっておられるのかを理解していたようには思えません。一方でマリヤは、神の小羊である主が、犠牲の死に向かって進んで行こうとされているのを感じとっていたのではないでしょうか。孤独な戦いの中に置かれた救い主にとって、マリヤの行為は大きな慰めと励ましになったのだと思います。主は私たち一人ひとりとこころの通う関係を持ちたいと願っておられます。友である私たちにご自身のこころを知ってほしいのです。