◆ヨハネの福音書12章23節~26節
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
私たちは、「現状を変えてください!」「助けてください!」と神様に訴えます。しかし、自分は変わりたくないのです。一方で、神様は私たちを変えたいと願っておられます。私たちが変えられるなら、現状が変わることを知っておられるのです。私たちは自分で自分を変えることはできません。私たちのために自分のいのちを捨ててくださった方に従って行くときに変えられていくのです。それは聖霊の働きです。
◎エルサレム入城
イエスさまは、ご自身の時が近づいているのをご存知でした。ちょうど過ぎ越しの祭りが始まろうとしていました。神の小羊であるキリストはご自身のいのちをすべての人の犠牲としてささげるためにエルサレムに入られたのです。人々はイエスさまがエルサレムに来られたことを知って、ホサナと叫んで熱狂的に歓迎します。(ホサナ本来、「主よ。救ってください。」という意味です。)イエスさまの行った数々の奇跡を見て民衆の期待は高まっていました。この人を政治的な指導者として担ぎ上げ、自分たちをローマの支配から解放してもらいたいと期待して叫んだのです。群集もそして弟子たちもメシヤとして来られたこの方が、人類のために苦しみを受けなければならないことを、またその意味を理解していませんでした。

Ⅰ.一粒の麦
ユダヤ人たちはメシヤ(救い主)を待望していました。彼らはイエスさまのなした数々の奇跡を見て、この人こそ自分たちの期待に応えてくれるメシヤであろうと期待したのです。自分たちの王となって欲しいと願ったのですが、彼らが望んでいたのは「自分たちの期待通りに働いてくれる王」でした。それが叶わないと知ったときに、多くの人々はイエスさまから離れて行き、ある人々は数日のうちに「十字架につけろ!」と叫ぶようになったのです。弟子たちでさえ自分たちの師であるイエスさまを見捨てて逃げて行きました。
イエスさまはこれから起こることをすべてご存知の上で、自分が地に落ちて死ぬ一粒の麦であると言われたのです。メシヤは確かに「神の国の王」でありますが、旧約聖書が預言しているように、すべての人の罪を負うために来られた「苦難のしもべ」でもあるのです。

弟子たちであっても、このことを理解したのはイエスさまが復活された後でした。メシヤは、信じるすべての人に霊的な解放をもたらすために、一粒の麦として捨てられ死ぬために来られたのです。イザヤ書53章に預言されているように、メシヤの十字架の死は、人間の目には敗北と映り、人々から見捨てられように映ったことでしょう、しかし、神の目には悪魔に対する勝利の第一歩であったのです。なぜなら、メシヤの復活によって、勝利は確定的なものとされ、そして、そこから神の国が広がり全世界で実を結び始めたからです。主は、ご自分が捨てられること(死ぬことによって)おおくの人にいのちが与えられることを知っておられたのです。
私たちは自分自身に問いかけてみる必要があるとおもうのです。私たちが求めているのは「自分の置かれた状況から解放されること」でしょうか、それとも「私たちを解放するために自分のいのちを犠牲にしてくださった方との関係」でしょうか?
Ⅱ.わたしについて来なさい。
群集は救い主に自分たちの置かれている(ローマ帝国に支配されている)状況を変えて欲しい、そこから解放して欲しいと願ったのです。数々の奇跡を行われたキリストであればそれができると期待したのです。しかし、イエスさまは神の御子に与えられた権威や力を人間の欲求を満たすためには(政治的な目的のためには)使われませんでした。群集の期待には応えられなかったのです。なぜならば、メシヤが来られたのは霊的な解放のためであったからです。悪魔の支配から人間の魂を解放するために、贖いの代価として自分のいのちを犠牲として差し出すために来られたからです。あれだけ多くの奇跡を見ても、自分たちの願いが答えられないと知ったときに多くの人が去って行きました。メシヤのもたらした目に見えない神の国がどのようなものか理解できなかったのです。救い主は私たちの状況を変えるために来られたのではなく、私たちを変えるために来られたのです。
「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」と、イエスさまは私たちに呼びかけておられます。私たちは、目に見える状況を変えて欲しいと訴えるのですが、救い主は目に見えない私たちの心を解放したいと願っておられるのです。イエスさまは「わたしについて来なさい。わたしがいる所にいなさい。」と私たちに求めておられます。わたしたちが自由にされるただ一つの方法は、キリストのあとについて行き、キリストのおられるところにとどまることなのです。なぜならそこに神の国があるからです。
恵み深い王が治める神の国に生きる時に私たちは悪魔と罪のくびきから自由にされ、聖霊の助けによって勝利者として生きていくことができるのです。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:4~5)

地に落ちて死んだように見えた「一粒の麦」が芽を出し、
やがて多くの実を結んでいく様子を聖書は記録しています。
そして今も多くの「一粒の麦」を通して世界という畑に驚くような収穫をもたらしているのです。