◆ヨハネの福音書15章1節~10節
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
◎まことのぶどうの木
ヨハネの福音書の中で、キリストは「まことの光」、「まことのパン」そしてここでは「まことのぶどうの木」として紹介されています。救い主がどのような方であるかが語られるときにこの「まことの」ということばが繰り返して使われます。キリストこそが真理なる方であること、キリストこそが人間の魂の渇きを満たすことのできる方であること、そしてここではキリストこそが私たちにいのちを与え豊かに実を結ばせることのできる方であること教えています。キリストとのいのちある親密な関係についていっしょに学びましょう。

Ⅰ.とどまる
1節から10節までのキーワードは「とどまる」です。(口語訳と新共同訳では「つながる」という言葉が使われています。)新改訳聖書ではこの箇所で11回使われています。ぶどうの木とその枝との関係を用いて、キリストにとどまる(つながる)ことの死活的な重要さを教えています。「わたしにとどまりなさい。」と語られた主イエスのことばは「弟子であるあなたたちはわたしにとどまらなければならない。」という権威を持った強い命令として捉えることができます。とどまるかどうかは私たちの選択にかかっています。救い主であるご自身との関係を失うということは、ぶどうの木から枝が切り離されることと同じ結果をもたらすのだと主イエスは教えています。すなわち、いのちを失って枯れてしまうということです。クリスチャンであるならば、確かに救い主との関係を持っているのですが、そのつながり方が問題なのです。親密さが問われているのです。
◇枯れた枝
子供のときに家の庭にぶどう棚があって2本のぶどうの木が植わっていました。毎年、秋になると沢山ぶどうがなったのです。母は食べきれない分をミキサーにかけてジュースにしたり、ジャムにしたりしていました。1本は枯れてしまいましたが、1本は今でも残っています。ぶどう棚の下でよく遊んでいたのですが、下から眺めていると葉の茂っている枝の間に葉が枯れてしまっている枝があることに気付きました。枯れた枝を折ってみると、中が芋虫に食べられて中空になっていました。カミキリムシが産みつけた幼虫が枝の芯を食べてしまい、養分が届かなくなっていたのです。

私たちも同様です。救い主とつながっているように見えても、いのちの流れてくる関係を持っていなければ、何か阻むものがあるならば、枯れてしまうのです。一番大切なのは、救い主をもっと深く知りたい、主の愛の中にとどまっていたいという願いではないでしょうか。そのような願いを持っている人は、「救い主との関係を阻んでいるものを取り除いてください。」と祈ると思うのです。
Ⅱ.刈り込みをされる
刈り込みをなさるのは農夫である神さまです。不要な枝を剪定しなければ、収穫の時にぶどうの枝が多くの実を実らせることができないことを知っておられるからです。
◇リンゴの木
十勝に住でいる友人、アブラハムさんの話を時々しますが、彼の家に滞在中に奥さんのあゆみさんがおやつにリンゴを出してくださったことがありました。自分の庭で収穫した無農薬のリンゴです。少し小粒でしたがとてもおいしいリンゴでした。滞在中、アブラハムさんがこんな話しをしてくださったのです。アブラハムさん家族が、浦幌に小さな畑のついた最初の家を買って移り住んでからもう何年にもなります。この家を手に入れたときに、庭に2本のリンゴの木が生えていることは知っていました。毎年、今年こそはリンゴがなるのではと楽しみにしていたのですが、5年たち、6年たっても一向に実がなりません。もう、諦めかけていたころ、たまたま訪ねて来た近所の農家のおばさんと、このリンゴの木の話題になったそうです。おばさんは「これはね。刈り込みをしなければだめだよ。」と言って、剪定鋏を持ってきて、バサバサと枝を切り落としていったそうです。驚いたことにその年から二本のリンゴの木には沢山のリンゴが実るようになったそうです。


自分には大切に思える物、なかなか手放せない物があっても、神さまの目には不要な物であるかもしれません。そんなものをもしかしたら私たちは沢山抱えているかもしれませんね。刈り込みは私たちにとって決して心地よいものではありませんが、豊かな実りを手にした時に、すべてを感謝できると思うのです。恵み深く、哀れみ深く、愛に満ちた父なる神の手によって刈り込みをされる私たちは幸いだと思いませんか。
Ⅲ.実を結ぶ
実を結ぶとは、まず主の弟子である私たちが変革され、内面的な実を豊かに結んで行くことだと思います。しかし、それは人間の努力によって得られる成果ではありません。いのちの主であるキリストにとどまり、父なる神の取り扱いを受け、聖霊の助けによってもたらされるものです。全ては私たちがキリストのことばにとどまるかどうかにかかっているのです。それもまた私たちの選択です。
豊かな実りが与えられるのは、枝がぶどうの木につながっていた結果であり、その枝が熟練した農夫によって刈り込みをされた結果なのです。枝が努力をして実を結んだのではないのです。ぶどう木であるキリストにしっかりととどまるならば、父なる神の愛の御手によって剪定されるならば、聖霊の助けによって私たちは多くの実を結ぶ者とされるのです。

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。 (ピリピ1:9~11)