◆ヨハネの福音書15章15節~17節
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
◎私たちはどのような存在か
今まで、いっしょに学んできたヨハネの福音書の中で、主イエスはさまざまな言葉を用いてご自身を紹介されています。「メシヤ」「まことの光」「いのちのパン」「羊の門」「良い牧者」「よみがえり」「まことのぶどうの木」「主」「師」「友」「道、真理、いのち」「王」。ヨハネの福音書を通して、キリストが私たちにとってどのような方かを学んでいますが、それは同時にキリストを信じる私たちがどのような者であるかを学ぶことでもあるのです。私たちは、キリストを信じ、まことの光の中を歩む者とされ、いのちのパンを食べる者であり、良き羊飼いであるキリストによって導かれ、また養われ、永遠のいのちが与えられ、豊かに実を結ぶぶどうの木の枝となり、真理であるキリストを通して父を知り、王なるキリストがご支配される神の国に生きる者なのです。この方が信じる私たちを「友」と呼んでくだるのです。
ヨハネの福音書は、「神の子ども」とされた私たちが、「キリストの弟子」そして「キリストの友」として生きるように教えています。
Ⅰ.神の子どもとして生きる
主イエスはご自分をお遣わしになった神を「わたしの父」と呼ばれました。また、「わたしを見た者は、父を見たのです。」とも語られました。メシヤは私たちに父なる神がどのような方かを現すために来てくださったのです。主イエスは、ご自身が人間にとって「父なる神を知るためのただ一つの道」であると語られました。神の子どもとされた者にとって、父なる神は、愛なる方、義なる方、必要を満たし良いものを与えてくださる良き父なのです。その良き父との関係の中に私たちを招き入れるために来てくださったのです。キリストは、十字架の死と復活を通して罪を持った私たちが神の子とされる道を開いてくださったのです。
神の子どもとされた私たちは、キリストを通して創造主である神様を「アバ父」(お父さん)と呼ぶ特権が与えられています。この関係こそが私たちにとって神様との土台となる関係だと思います。罪赦された私たちは、父なる神の目に尊い価値ある存在、愛するわが子として映っているからです。私たち一人ひとりが父なる神の愛を知るときに、教会は(家庭は)父なる神の愛が現される場所となるのです。私たちの良き父は、子どもである私たちのすべての必要を満たしてくださる方です。
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(ガラテヤ4:6)

Ⅱ.キリストの弟子として生きる
創造主を「アバ父」と呼ぶことのできる関係の中に入れられた私たちはみな「キリストの弟子」として生きるように召されています。弟子と訳されているもともとの言葉は「学ぶ者」を表すギリシャ語のマテーテースという言葉が使われています。主イエスは3年ほどの公生涯を弟子たちとともに過ごされました。寝食を共にし、旅に伴われ、共に働かれました。弟子たちは主イエスから弟子としての生き方を学んだのです。主イエスはご自身が「道」であると語り、初期の弟子たちは「その道の者」と呼ばれていたのですが、そう考えるとキリスト教と言うよりは、キリスト道といった方が良いかもしれませんね。主イエスは「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)と言われました。そしてここでは、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)と語っておられます。私たちがキリストのことばにとどまり、キリストの弟子とされるときに、その生活の中に豊かに実が結ばれるのです。私たち一人ひとりがキリストのことばにとどまり、キリストのことばに生きるときに、教会はキリストの弟子を生み出す場所となるのです。主であるキリストは弟子となった私たちと共に力強く働いてくださる方です。弟子である私たちを通して主は人々の必要を満たされるのです。

Ⅲ.キリストの友として生きる
主イエスは弟子たちを「友」と呼ばれました。主であるキリストのこころを知り、キリストの愛にとどまり、その愛を行動に移す人たちを「友」と呼ばれたのです。主イエスが友である弟子たちに残した大切な戒めは、とても単純なものでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)でも互いに愛し合うとは具体的にはどういうことなのでしょうか。新約聖書の中から「互いに」というキーワードを拾って読んでみるとヒントになると思います。
互いに親切にし、憐れみの心で接し、・・赦し合いなさい。(エペソ4:32)
互いに従いなさい。エペソ5:21
互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)
互いに教え、互いに戒め、(コロサイ3:16)
互いに慰め合いなさい。(Ⅰテサロニケ4:18)
互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(Ⅰテサロニケ5:11)
互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。(ヤコブ5:16)
互いに親切にもてなし合いなさい。(Ⅰペテロ4:9)
互いに仕え合いなさい。(Ⅰペテロ4:10)
互いに交わりを保ち、 (Ⅰヨハネ1:7)

私たちを「友」と呼んでくださる主イエスは、私たちが主にある神の家族に対して、そして私たちの隣人に対して「良き友」として生きることを望んでおられるのです。主にある家族とは教会の仲間たちのことであり、隣人とは、私たちの親、夫、妻、子どもたち、同僚、また友人たちのことです。私たち一人ひとりがキリストの友として、その愛に生きる時に、教会は多くの実を結ぶようになるのです。キリストは私たちのためにいのちを捨て、神の力によって死と悪魔に打ち勝ち、聖霊によって今、私たちのうちに生きておられるのです。