◆ヨハネの福音書17章1節~5節
17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
◎最後の祈り
主イエスは弟子たちに決別のメッセージを語られた後で、父なる神に目を向けて祈り始めます。その祈りはご自身のための祈りであり、またこの時共にいた弟子たち、またこれから集められる弟子たちたちのための取り成しの祈りでもありました。
Ⅰ.父の栄光を現すために
この箇所で、主イエスは「栄光」という言葉を繰り返し使って祈っておられます。栄光と訳されたギリシャ語の言葉はドクサですが、これはヘブル語のカーボードの意味を受け継いでいます。カーボードはもともと「重さ」を意味する言葉です。創造主なる神の偉大さ、尊厳や威光を現す言葉であると考えて良いと思います。イエス・キリストを通して現された父の栄光とは、その偉大さであり、人間に向けられた愛と恵みの重さ(深さ)だと思います。主イエスは、ご自身の生涯を通して、また十字架の死と復活を通して、神の栄光が現されることを願われました。
「重い」「軽い」という表現は、ものごとの重大さや価値を表す時にも用いられます。父なる神はご自身の愛の深さ(重さ)をキリストの十字架の犠牲の死を通してこの世界に示されました。罪のないキリストのいのちという重い代価が支払われたことによって、私たちに対する神の愛の真実、その深さが現されたのです。
◇価値を知らないことの悲劇
昔、インドの山里に一人の猟師が暮らしていました。猟師とは言っても彼が獲物を仕留めるために使うのは弓や槍ではありません。どこにでも転がっているような石を拾い、それを狙った獲物に投げて猟をしていたのです。彼は石投げの名人だったのです。ある日、いつものように腰の袋に石をたくさん詰めて森に入っていきました。ところが半日もたたないうちに、何の獲物を取れないまま、すべての石を使い切ってしまいました。森の中ではなかなか手ごろな石は見つかりません。あきらめて早々と家路につこうとした時に、男は何かに躓いて転びそうになりました。足元を見ると半分地面に埋まった壺があることに気づきます。
中を見るとなんと石投げに使えそうな手ごろな石がたくさん入っているではないですか。喜んで袋を石で詰めていっぱいにすると、日が暮れるまで猟を続けたのです。今度は期待以上の収穫が与えられ、男は手に入れた沢山の獲物を町に売りに行きました。町の商人に、男は誇らしげに収穫を見せたのですが、商人は男が持ってきた獲物よりも、最後に一つだけ残った石の方に興味を示しました。「その石を私に見せてくれないか。いったいこれをどこで手に入れたのかね。」なんとその石は一個でお城のような豪邸が買えるほど価値のある高価な宝石だったのです。猟師はそれを知ると、その場に崩れ落ちて自分の愚かさを嘆いたのです。たくさんあった宝石を山の中に捨ててきてしまったのですから。
Ⅱ.キリストにある宝
主イエスにとってもっとも重いこと、価値あることは、ご自身を通して父の栄光が現されることでした。主イエスはこの世の富を手にすることはありませんでしたが、誰よりも豊かな富を持っておられました。それを弟子たちに残していかれたのです。その富とはキリストにある愛、平安、喜び、勝利、天にある全ての祝福、永遠の希望です。聖霊はその約束の保証であり、私たちが最後まで救いの道を歩み続けることができるようにと、助けてくださる方なのです。
主イエスは、ご自身を通して父の栄光が現されることを何よりも願い、その生涯を全うされたのです。私たちはどうでしょうか。私たちを通してキリストの栄光が現されることを何よりも願って生きているでしょうか。キリストは私たちを通してご自身の栄光を現したいと願っておられるのです。私たちはその願いに答えているでしょうか。私たちは救われて、神の子とされ、永遠のいのちをいただき、将来の希望が与えられています。私たちに与えられているキリストの宝です。しかしその価値を知らないならば、恵みを無駄にしてしまいます。私たちに与えられている健康を、時間を、力を何のために使っているでしょうか。自分の為だけに使っているとしたらそれは高価な宝石を山の中に捨ててしまうことに似ています。しかし、神の栄光のために使うならば、私たちの人生に大きな祝福をもたらすのです。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(Ⅱコリント4:7)