◆ヨハネの福音書18章1節~13節
18:1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。
18:2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。
18:5 彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
18:7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。
18:8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
18:11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
18:12 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、
18:13 まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
18:2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。
18:5 彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
18:7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。
18:8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
18:11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
18:12 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、
18:13 まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
◎クライマックス
18章から、いよいよヨハネの福音書のクライマックスに入ります。ヨハネの福音書にはいくつかの特徴がありますが、その一つはイエス・キリストの神性(神であること)を強調している点です。これまで何度か取り上げてきましたが、18章でも繰り返されている「わたしは~いる。」「わたしは~です。」という表現(ギリシャ語ではエゴー・エイミ)にも表されています。また、十字架を前にした主イエスの姿も、他の福音書よりももっと能動的に描かれています。主イエスは、誰も通ったことのない十字架という過酷なミッションに顔を背けずに進すんで行かれます。御父に対する完全な従順と揺るがない決意が浮かび上がってきます。それが私たち一人ひとりのためであったことを知らなければなりません。

Ⅰ.エゴー・エイミ
「ナザレ人イエスを引き渡せ!」と迫るユダヤ人たちに対して、主イエスは「それはわたしです。」(新共同訳:「わたしである。」)とお答えになります。ギリシャ語の本文ではエゴー・エイミですが、18章の中で3回繰り返えされています。このエゴー・エイミはヨハネの福音書を理解するうえで大切なキーワードです。燃える芝の中からモーセを召し出された神が、ご自身を名乗られた時に語られた言葉でもあります。

1.キリストは供にいてくださる方 (わたしは~いる。)
まず、キリストが、「エゴー・エイミ」と語られたときに、それはご自身が「初めからおられる方」神であることの宣言でありました。この方が私たちと供におられるのです。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)
キリストは私たち一人ひとりを、目的を持って造ってくださった方であり、今与えられている人生を共に歩んでくださる方であり、永遠の御国へと導いてくださる方です。
2.キリストは全ての全てとなってくださる方 (わたしは~です。)
また、キリストは、私たち人間のために、ご自身が望むものになることができると言う意味で「エゴー・エイミ」と語られました。ヨハネの福音書で、主イエスはご自身のことをどのように語られたかをもう一度思い出してみましょう。
わたしはいのちのパンです。(ヨハネ:6:48)・・・・・・・霊的飢えを満たしてくださる方
わたしは、世の光です。(ヨハネ:8:12)・・・・・・・闇の支配から解放してくださる方
わたしは、良い牧者です。(ヨハネ:10:11)・・・・・・・日々、養い導いてくださる方
わたしは、よみがえりです。いのちです。(ヨハネ:11:25)・・・・・・・日々、養い導いてくださる方
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ:14:6)・・・・・・・神との和解へと導いてくださる方
わたしはまことのぶどうの木であり・・・((ヨハネ:15:1)・・・・・・・豊かに実を結ばせてくださる方
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)
キリストは私たちの罪の代価を支払ってくださいました。その意味で救いは完了しています。しかし、私たちは救われてはいても、いまだ未完成です。なぜなら究極的な救いの完成(神の国の完成、栄化)はまだ来ていないからです。私たちはそこに向かって主とともに歩んでいるのであり、神の国の完成は確実に私たちに向かって近づいているのです。そこに私たちの希望があるのです。キリストと共に歩み続けていく中で、主は私たちのすべての欠けや不足を満たし、癒し、最後には神の作品として完全な姿へと回復してくださるのです。
Ⅱ.イエスが飲まれた杯
主イエスは、「父がわたしにくださった杯」と呼んでいます。マタイの福音書では、ゲツセマネで主イエスがこの杯を飲む決意をされた時に、もだえ苦しんで祈られた姿が記されています。聖書の中で、杯はたびたび人間の罪に対する神の怒りや裁きを象徴して用いられています。主イエスが飲まなければならなかったこの杯は、人間のすべての罪で満たされていたのです。この杯を飲まれたときに、私たちのすべての罪をその身に負ってくださったのです。聖書はキリストが私たちの罪となってくださった(同化してくださった)と語っています。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)
イエス・キリストは私たちの全ての罪を負われ代価を払ってくださって、私たちを自由にしてくださいました。そのキリストを知り、求め続け、その招きに応えて生きていくことこそが私たちにとって一番幸いな生き方だと聖書は教えています。すでに祝福を受けている私たちは、キリストの犠牲に応えて生きていくべきではないでしょうか。