◎ヨハネの福音書19章28節~30節
19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
◎19章の背景
ピラトの官邸に連れてこられた主イエスですが、そこでもののしられ、侮辱され、暴行を受けます。1節に「むち打ちにした。」とありますが、ローマ兵たちが用いていた鞭は先に金属片や骨片がつけてあるような代物でした。ヨハネは主イエスが十字架にかけられるまでの様子を淡々と記していますが、実際はとても残虐な場面が展開していたのです。

激しい拷問を受けた後で、主イエスは自ら運んでいった十字架につけられます。ピラトは十字架の上に、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれた罪状を掲げるように命じました。そこには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれてありました。それまでピラトは大勢の犯罪人、反逆者を処刑してきた人物ですが、ナザレ人イエスを処刑することには大きなためらいがあったことが伺えます。ユダヤ人指導者たちのねたみによって裁きの座に連れてこられたイエスを尋問した彼は、この人に罪のないことを知り、それだけでなく不思議な権威を感じて恐れたのです。しかし、自分の地位を失うことの方をもっと恐れた彼は、ユダヤ人の声に負けて、イエスを十字架刑にすることにしぶしぶ同意したのでした。十字架の上に「ユダヤ人の王」と書かれた罪状を付けたのは、ユダヤ人指導者たちに対するいやみ、あてつけであったと思います。しかし、神はその罪状の書かれた板を通して、イエスが王であることを宣言されたのです。

Ⅰ.わたしは渇く
主イエスは「わたしは渇く。」と言われました。それは、第一に、キリストが私たちと同じ肉体を持っておられたことの証しです。暑さや寒さも、疲れや痛みも、空腹や渇きも経験されたのです。だからこそ私たちを哀れむことのできるお方なのです。救い主は100%神なる方ですが、100%人として来られた方なのです。第二に、主イエスの渇きは、父なる神に向けられた霊的な渇きでした。全ての人の罪と呪いをその身に負ったキリストは、私たちの身代わりとなり、父なる神との関係から切り離され、十字架の上で見捨てられた者となったのです。人々の目にも、悪魔の目にも、そのように映ったことでしょう。しかし、それは神の救済の計画が成就するためであったのです。キリストは私たちのためにこの渇きを経験されたのです。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
(イザヤ53:4~5)
Ⅱ.完了した
主イエスは息を引き取る前に「完了した」と言われました。「完済する」という意味の商業用語テテレスタイという言葉が使われています。「支払うべきものをすべて支払い終えた」という意味です。聖書は、神から離れた人間は全て悪魔と罪の支配下に置かれていると教えています。自覚があってもなくても、神の目から見るならば罪の奴隷なのです。キリストは奴隷状態にある私たちを、ご自身の罪のない血(いのち)を代価として買い戻してくださったのです。それが贖いです。御父が御子に託したその大きな使命を十字架の上で成し遂げられた(達成された)のです。

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ53:10~11)
神に対する渇きだけが、あなたを神に近づけます。キリストはご自分の血(いのち)を代価に、
あなたの負債を完全に支払ってくださいました。あなたを買い取ってご自分の者としてくださいました。(Ⅰコリント6:20)
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ53:10~11)
神に対する渇きだけが、あなたを神に近づけます。キリストはご自分の血(いのち)を代価に、
あなたの負債を完全に支払ってくださいました。あなたを買い取ってご自分の者としてくださいました。(Ⅰコリント6:20)
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
◎イザヤ書53章を読んで、救い主が私たちのために支払われた代価について考えましょう。