過越の小羊

キリストはあなたに新しいいのちを与えてくださいます。

◆ヨハネの福音書19章31節~37節

19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。 
19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。 
19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。 
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。 
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。 
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。 
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。

◎過越の祭り

主イエスが十字架にかけられたのは、過越の祭りの安息日前日でした。過越の祭りは、エジプトの奴隷であったイスラエルの民が、神の介入(奇跡)によって解放されたとことを記念する祭りです。主である神はエジプトに十の災害を下されました。エジプトの王は災いが過ぎると心を頑なにしてイスラエルの民を解放することを拒みます。ついに十番目の災いが下されるのですが、それは「それはすべての長子を殺す。」というものでした。その裁きからイスラエルの民を守るために、神は一家族が一頭ずつ小羊を殺して、その血を家の門のかもいと二本の柱に塗るように命じたのです。犠牲となった小羊の血が塗られているならば、神の裁きはその家を通り過ぎて、長子の命は守られるというものでした。過越の祭りはユダヤの三大祭りの一つとして、形を変えて現代でも祝われています。小羊が犠牲となって死ぬことにより、イスラエルの民(また家族)は裁きから守られたのです。「神の小羊」であるキリストは、この過越の祭りの最中に十字架の上で全ての人の身代わりとしてご自身のいのちを捧げられたのです。

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Ⅰ.過越の小羊

バプテスマのヨハネは、主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました。彼は、この方こそ、全ての人の罪の身代わりとして死ぬために来られたメシアであることを証言したのでした。旧約聖書には主イエスを通して成就した332のメシア預言があると言われていますが、その多くは、十字架の出来事に集中しています。ローマ帝国の十字架刑は、残虐な処刑方法であったので、ローマ市民は免除され、反逆者のような重罪にのみに用いられた処刑方法であると言われています。普通は死ぬまでそのまま何時間もあるいは何日も放置するのが慣わしでしたが、この時のように特別な事情がある場合には足の骨を折って死期を早める手段が取られていました。キリストの骨が砕かれなかったのをヨハネは預言の成就として記しています。

◆・・・またその(過越のいけにえの)骨を一本でも折ってはならない。・・・(民数記9:12)

◆主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。(詩篇34:20)

◆・・・私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。(Ⅰコリント5:7)

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キリストは自ら十字架についていのちを捧げ、私たち一人ひとりのための過越の小羊(身代わりのいけにえ)となってくださったのです。私たちに求められているのは、古い自分を十字架につけて、日々主であるキリストに従って歩んで行く生き方です。

Ⅱ.血と水

ローマ兵は、死を確実にするために、手にした槍で十字架にかけられすでに息を引き取っていた主イエスのわき腹を突き刺します。熟練したローマ兵の槍は、主イエスの心臓と左の肺を突き通し、人の手を差し入れることのできるほど大きさの傷口を残したであろうと考えられます。ヨハネは、その傷口から血と水が流れ出したと記しています。主イエスは、ローマ兵による鞭打ちと暴行によってひどい打撲と裂傷を負っていたと思います。医学的に見ると、主イエスが十字架にかけられた時には多量の出血によって臓器が機能不全を起し、肺には胸水が、心臓には心膜液という液体が溜まっていたであろうと考えられています。ローマ兵が心臓を刺し貫いた槍を引き抜いたときに多量の血と水が流れ出たのはこれが原因であろうと専門家たちは考えています。ですので、聖書の記述を信じるならナザレのイエスの死は、だれが見ても確実なものだったのです。

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また、血と水には聖書が象徴する別な意味があります。イエスが流された血は、救いが達成されたことを示しています。血とともに流れ出した水は、神の小羊の犠牲によって、信じるものに与えられる新しい霊的いのちを象徴しています。それは、聖書の預言、神の贖いの計画の成就であったのです。主イエスが十字架の上で「完了した。」と語られたのは、それを意味していたのです

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◆・・・血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)
 
◆わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(ゼカリヤ書12:10)
 
◆その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。 (ゼカリヤ書13:1)

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イエス・キリストは、あなたに新しいいのちを与えるために、
十字架の上で身代わりとなって死なれました。