祈りの答えを握っておられる方を求めて祈っていますか?
主の祈り
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
(マタイ6:9~13)
私たちは、
1.愛する天の父に呼びかけます。
2.神の御名があがめられるように祈ります。
3.神のご支配の中に生きることを求めて祈ります。
4.私たちの必要が満たされるように祈ります。
5.神の赦しを受け取り、自分と人々を赦し、
私たちの神と人々との関係が正されるように祈ります。
6.私たちの心と思いが誘惑と悪から守られるように祈ります。
7.最高の権威者である天の父を信頼して祈ります。
◎だから、こう祈りなさい。
今日は、ヨハネの福音書から離れて、マタイの福音書6章9節~13節の「主の祈り」から、いっしょに学びたいと思います。主イエスが「こう祈りなさい。」と弟子たちに教え、私たちに残してくださった祈りのお手本です。短い祈りですが、ここにすべての祈りに通じる大切な7つのポイントが隠されています。祈りにはあなたを創り変える力があるのです。
Ⅰ.天にいます私たちの父よ。
私たちは、愛する天の父に呼びかけます。主の祈りは祈りを聞かれる方が誰なのかを教えています。祈りは天の父に「祈り」を考えるときに、私たちが「何を祈っているか。」よりも「誰に祈っているか。」の方が大切です。主の祈りは「天におられる父」に向けた呼びかけから始まります。クリスチャンのすべての祈りは、すべての人を創られた、また世界を創られた創造主である神に向けられています。救われて神の国に入れられた私たちにとっては、「お父さん」と呼びかけることのできる親しい存在です。どんなことでも訴えてよいお方です。それを受け止めてくださるお方です。
もう一度、あなたを愛しておられる天の父、すべてをご支配されておられる天の父に呼びかける思いで祈ってみましょう。

Ⅱ.御名があがめられますように。
私たちは、神の御名があがめられるように祈ります。「人間を含めすべての被造物が神の御名をあがめるように。」というのが本来の意味です。「御名をあがめる」とは私たちの信じる神は偉大な方、素晴らしい方、良き方であると賛美することではないでしょうか。どんな願い、どんな必要でも父なる神に訴えてよいのです、しかし、その前に「御名があがめられるように」祈りなさいと主イエスは教えています。
問題の中にあっても、まず「神の御名があがめられるように。」と祈りましょう。
Ⅲ.御国が来ますように。
私たちは、神のご支配の中に生きることを求めて祈ります。御国(神の国)と聞くとどこか遠くにある天国を連想される方がおられるかもしれません。神の国は神のご支配を指しています。聖書はメシアとともに神の国はすでにこの地上にもたらされてはいますが、いまだ完全な形では現れていないと教えています。「御国が来ますように。」とは、「私たちが今、神の支配の中に生きることができるように。」との祈りであり、「将来、キリストが王として治める神の国が地上に実現すること」への希望の告白でもあります。
神のご支配に自分を明け渡して祈る祈りこそが「神のみこころ」に至る最善の祈りです。

Ⅳ.私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちは、私たちの必要が満たされるように祈ります。「糧」と訳されているもともとの言葉は「パン」です。英語では daily bread 日々のパンと訳されています。この「パン」は食べ物だけでなく、広く捉えるなら私たちの抱える物質的(肉体的)な必要をすべて含んでいると思います。地上におられたときに、主イエスも肉体的な必要を持っておられました。私たちが肉体的な必要を抱えて生きていることをご存じなのです。「私の必要を満たしてください。」と祈ってよいし、祈るべきですが、主の祈りは一人称複数(we)の祈りであることに目を向けたいと思います。「自分だけの必要が満たされればよい」という祈りではなく周囲の人々の必要を意識した祈りです。私たち家族の必要、私たち教会の必要、もっと大きく考えるなら、私たちの町の必要、私たちの国の必要を満たしてくださいという祈りでもあると思うのです。
自分の必要と共に、周囲の人々の必要が満たされるように祈るときに、神はあなたに祈りの力を注がれます。

Ⅴ.私たちの負いめをお赦しください。
私たちは、神の赦しを受け取り、自分と人々を赦し、私たちの神と人々との関係が正されるように祈ります。マタイの福音書では「負いめ」(ルカの福音書では「罪」)と訳されていますが、私たちの神に対する負債を指しています。「私たちが神に対して大きな負債を負っていること」、そして、「神がキリストの犠牲を通して、その負債を赦してくださること」、そこに立って祈ることが大切です。赦しがテーマになっていますが、「主の祈り」は、私たちと神との関係、私たちと人々との関係が正されるように祈ることを求めています。
神の赦しを受け取り、自分を赦し、赦すべき人を赦すならば、あなたの祈りに、神のいのちが流れ始めます。

Ⅵ.私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
私たちは、私たちの心と思いが誘惑と悪から守られるように祈ります。私たちは神の国の市民として生かされていますが、この世界は、いまだ暗闇の支配下に置かれています。サタンの支配する世界に、神の国が侵攻してきたのです。キリストは十字架の上で決定的な勝利をおさめられましたが、戦いはまだ終わっていません。聖書は、自分を守り、敵と戦ううえで、祈りが強力な武器であると教えています。
聖書は、祈りがあなたの心を守り、敵と戦うための強力な武器であると教えています。たとえ嵐の中に置かれていても、天の父はあなたの心を守り、あなたの祈りに油を注いでくださるのです。

Ⅶ.国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。
私たちは、最高の権威者である天の父を信頼して祈ります。私たちの望むように、望むタイミングで祈りが答えられなくても、たとえ誘惑と試練の中に置かれても、天の父に信頼して祈り続けるように聖書は教えています。
どんな状況の中でも、あなたの天の父がすべてにまさる権威と力を持ち、すべての栄光を受けるべき方であることを告白して祈り続けましょう。天の父が、聖霊を通して、あなたのうちに力強く働いてくださるのを経験するようになります。