主イエスは生きておられる

◆ヨハネの福音書20章11節~18節

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。 
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。 
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」 
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。 
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」 
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。 
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」 
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

◎十字架の死からよみがえりまで

主イエスが十字架の上で息を引き取られた後、アリマタヤのヨセフがピラトに願い出て、埋葬のためにその遺体を引き取りに出向きます。サンヘドリン(議会)の一員であった彼は主イエスの弟子でしたが、ユダヤ人たちを恐れてそれを隠していました。遺体の引き取りの現場には律法学者のニコデモも合流します。それまで隠れていた二人は主イエスの十字架上の死を目撃して、勇敢な弟子と変えられます。すべてを失うことを恐れずに、キリストの弟子として大胆にカミングアウトしたわけですから。週の初めの日に、マグダラのマリヤは主イエスの遺体がなくなっていることに気づき弟子たちに報告します。ペテロとヨハネがその知らせを受けて、主イエスが葬られた墓に向かいますが、マリヤの言葉通りに主イエスの遺体は消えています。ただ、イエスの体を包んでいた 布だけが墓の中に残されているのを見て、ヨハネが主イエスのよみがえりを信じたと聖書は記しています。この5人の登場人物の中からマグダラのマリヤに焦点をあてて学んでいきましょう。

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Ⅰ.復活の証人   復活の主は、私たちを証人として召しておられる

マリヤはいつも主イエスにつき従っていた弟子の一人です。主イエス、そして弟子たちと旅を伴にしていました。他の女の弟子たちと協力して、伝道チームのお世話をし、必要なものを捧げ、宣教の働きを助けていたのではと思われます。また、男の弟子たちがユダヤ人たちを恐れて隠れている時に、十字架立てられた処刑場に残り主イエスの死を見届けた少数の弟子たちの一人でした。そして、ここでは復活した主イエスと会った最初の証人となったマリヤの姿が記されています。

マリヤは愛する主を失った大きな失望と喪失感の中に置かれていました。彼女の探していたのは主イエスの亡骸であって、復活された生ける主ではありませんでした。空の墓を見ても、主イエスの復活を信じることができなかったのです。先日、妻の範子とイスラエルツアーに参加する機会が与えられましたが、園の墓を訪れた時に、墓の入り口の木戸に看板が掛かっていました。墓を訪れた女たちに御使いが語ったことば(ルカ24:6/マタイ28:6)が彫り込まれています。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」マリヤはまだ知りませんでしたが、主イエスは墓から出られ、彼女のすぐそばにおられたのです。失望の中にあったマリヤですが、主イエスは他の弟子たちと共にご自身の復活の証人としてこの女性を選んでおられたのです。あなたは悲しみの中にいるでしょうか?失望の中に置かれているでしょうか?どのような状況に置かれていたとしても、マリヤに与えられたのと同じ召しが私たち一人ひとりに与えられているのです。

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Ⅱ.良き羊飼い   復活の主は、私たちを良き羊飼いとして道ぎかれる

主イエスが泣いているマリヤに話しかけても、マリヤはまだ気づきません。それほど彼女の悲嘆は大きかったのでしょう。そんな彼女に主イエスは「マリヤ。」と呼びかけられます。主であると気づいたマリヤは「ラボニ。」と答えます。彼女の悲しみは一瞬にして大きな喜びに変えられます。

私たち苦しみ、悲嘆、失望の中に置かれている時に、そこからの助けを求めて神様に祈るのですが、もし、自分の名前を呼ぶ主の声を聞くことができたらどうでしょうか。「主は私のそばにいてくださったんだ。」「主は私を忘れていなかったんだ。」「主は私に目を留めていてくださったんだ。」それを知るだけで私たちは問題から解放されないでしょうか。主イエスが十字架にかかって死なれたのはあなたためであり、よみがえられたのもまたあなたのためなのです。良き羊飼いである主、よみがえられた主が自分の名前を呼んで声をかけられた時に、マリヤはすべての失望と嘆きから解放され、復活の証人としての第一歩を歩み始めたのです。私たちが問題の中に圧倒されて失望し、嘆いているときにも、復活の主はそこにいてくださるのです。耳を傾けるならば、あなたの名前を呼んでいる良き羊飼いの声を聞くことができるのです。

Ⅲ.神の家族   復活の主は、私たちを神の家族としてくださる

復活された主イエスは、弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。イエスは私たちの主であり、師であり、友であり、王であり、神であり、そして兄でもあるのです。救われた者は皆、神の子として神の家族に加えられているのだと教えておられるのです。主イエスが「マリヤ。」と呼びかけた時に、そこには、兄が愛する妹に呼びかけるような響きがあったのではないでしょうか。主イエスは「わたしたちの父」とは言われずに「わたしの父またあなたがたの父」と言われました。同じ親子であってもその質が異なるからです。主イエスは初めから永遠に神の御子(御子なる神)であるのに対して、私たちはキリストの贖いを通して、恵みによって神の子どもとされたからです。その私たちに対して、主は「私の弟よ。妹よ。」と呼びかけてくださるのです。ですから神によって召しだされた者たちの集まりである教会は「神の家族」なのです。復活の主は、私たち一人ひとりをその神の家族の中に招き入れ、私たちの生活の中でともに生きてくださるお方です。

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主イエスは、私たちの内に、私たちと伴に、私たちの間に、生きておられます。