◆ペテロ第一の手紙4章7節~11節
4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。
Ⅰ.万物の終わりが近づきました。
ここで語られている「終わり」は原語では「完成」あるいは「仕上げ」という意味で使われています。すなわち、「すでに完成の時代(仕上げの段階)に入っているのだ。」ということをペテロは2000年前の当時の教会に伝えているのです。そうであるなら、現代の私たちはもっと完成に近づいていることを自覚しなければならないのではないでしょうか。聖書は今が終わりの時代であると教えています。いつかはわかりませんが、私たちの人生にも終わりが来ます。また、今日という大切な一日いも終わりがあるのです。どれだけ残っているか分かりませんが、あなたに残された大切な時間を、あなたは何のために使いますか?

Ⅱ.祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
もちろん「慎重でありなさい。」という意味もありますが、英語では watchful や alert などのことばが使われており、原語にも「周囲の状況に注意を払って冷静に判断できるように」という意味が含まれているようです。ただ祈るのではなく、より効果的に、適切に祈れるようにしなさいということです。自分の考え、思い、判断、願い、感情でいっぱいになった状態で、祈っていても、なかなか自分の状態、置かれている状況を神様がどのようにご覧になっているのかわからないと思うのです。祈る前に、静まって心をリセットすることが大切です。神様の視点に近づいて祈る時に、私たちの祈りも的を得た祈りに変えられていくと思います。
Ⅲ. 互いに熱心に愛し合いなさい。
当時のクリスチャンたちには終わりの時代に生きているという切迫感がありました。ペテロは「いつ幕が降りても良いような生き方をしなさい。」と語っているのです。終わりを意識するならば、当然、優先順位が変わるはずです。何よりも優先して行うようにペテロが訴えているのは、「熱心に愛し合う」ことです。熱心にというのは、「ともかくこれだけに心を注いでひたすらに」という意味だと思います。相手の罪をカバーし、赦す愛し方です。「臭い物に蓋をする。」ということでは決してありません。愛と赦しのあるところに聖霊が働かれ、罪の自覚が生まれるのです。また、罪の自覚(告白)があるならば、神様は赦しと愛をもってその人をおおってくださるお方です。
「愛し合う」の中に9節の「親切にもてなし合う」も含まれていると思います。ここで語られている「もてなし」は原語では「家に迎え入れてもてなす」という意味のことばが使われています。当時のクリスチャンたちは旅先で、しばしば、その土地のクリスチャンの家庭に迎え入れられて宿泊していたようです。使徒たちも、訪問先のクリスチャンたちのもてなしを受けて伝道活動を続けていました。今の日本の住環境では、難しいことですが、そういうもてなしの精神を持つことは大切だと思います。今、私たちにできることは、教会につながる神の家族の必要を見つけてそれを満たすことではないでしょうか。何かあなたにできる小さなことがあるはずです。

Ⅳ.賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
賜物と訳されている聖書の原語(ギリシャ語)はカリスマです。本来の意味は「贈り物」です。クリスチャンにとっては恵みによって神様から与えられた能力のことです。ペテロは、例外なくすべてのクリスチャンにこのカリスマが与えられていると教えています。一人ひとりにユニークな賜物が与えられているのですが、その賜物は神様の手の中にあって初めて豊かに用いられるものです。なぜなら神様の与えてくださる賜物は神様のこころにかなった方法でしか使うことができないからです。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 (ヨハネ15:5)

賜物の例として「語る」ことと「奉仕する」ことが取りあげられています。どちらの賜物も、自分の力で、自分のために使うことはできません。神の力によって、ほかの人(教会、家庭)を建て上げるためにしか使うことができないのです。私たちが目を醒まして祈り始める時に、互いに愛し合い、神の力によって賜物を用いて仕え合うときに、そこに神の栄光が現わされるのです。
あなたに残された大切な時間を、あなたは何のために使いますか?