Ⅰ.アバ父 心にかけてくださる方
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(ガラテヤ4:6)
主イエスが神を父と呼んでおられる個所が福音書の中に170か所あると言われています。一方、旧約聖書の中で、神に対して直接、父と呼びかけた人物は一人もいません。聖書の中で神は近づきがたい畏れ多い「王の王、主の主」として描かれてもいますが、同時に、人間と親密な関係を持つことを願う「父、友」としても描かれています。主イエスは神をアバ(お父さん)と呼ばれました。幼い子供が自分のお父さんに向かって親しく話しかけるように、神に祈られた主イエスの祈りは、宗教指導者たちは冒涜として映りましたが、弟子となったユダヤ人たちにとっては新鮮な驚きでした。主イエスは祈りを通して、神が私たちを愛し、心にかけていてくださる「お父さん」であることを教えられたのです。私たちが父なる神と親しい関係を持つことに困難を覚えるのは、様々な理由があると思います。「遠くにいて、私には目を向けてくれない無関心な神。」「私の過ちや失敗を指摘して裁かれる厳格な神。」多くの人の神のイメージはどこか傷つき壊れているのです。
あるクリスチャンの女性は、友人たちが祈りの中で「父」と呼びかけるのを聞くたびに、身をすくませていました。彼女は自分の父親から虐待を受けて育ったからです。彼女にとっての神は、彼女の失敗や欠点をあげつらっては叱責する独裁者のような存在でした。どうしても神との親しい関係を持つことのできなかった彼女は、何年もたってからクリスチャンのカウンセラーに自分の問題を打ち明けました。自分の神がどのような存在であるか(そのイメージ)をカウンセラーに説明したのです。じっと彼女の話しを聞いた後に、カウンセラーはこう言いました。「そんな神様はクビにしたらいいじゃないですか。」彼女はカウンセラーの知恵に満ちた単純なアドバイスに従ったのです。

救い主が来られたのは、そんな私たちに神がどのような方であるのかを現すためでもありました。父から遣わされた救い主だけが完全な父の姿を現すことができたのです。聖霊はみことばを通して、祈りを通して、私たちの父がどのような方かを教えてくださいます。父のイメージが回復されるときに、私たち自身も回復されるのです。あなたの天の父は、あなたのことを誰よりも心にかけていてくださる方です。
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(新共同訳 Ⅰペテロ5:7)。 ※口語訳 かえりみていて下さる
Ⅱ.受け止めてくださる方
ハバクク書は、「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。」という神に対する疑問と嘆き、訴えで始まっています。旧約聖書の他の預言者たちの祈り、詩編の著者たちの祈りの中には、神に対する感謝や賛美だけでなく、ハバククのように否定的な感情をぶつけているような祈りがあちこちに見受けられます。ヨブもしかり、エレミヤもしかり。福音書では、主イエスがゲツセマネの園の祈りの中で、父に自分の苦痛をストレートに訴えおられます。聖書を読むならば神様が不満であれ不平であれ悩みであれ痛みであれ、私たちの訴えを受け止めてくださる方であることが分かります。
エルサレムでの出来事です。多くの問題を抱えて苦しんでいる一人の男が、霊的な指導者(レビ)を尋ねてやってきます。男が自分の不遇な生い立ち、傷ついた人間関係をわめきながら訴えるのをレビは何時間も忍耐して聞いていました。どのように答えてもはねつけていた男に、レビはこう尋ねました。「あなたはなぜそんなに神のことを怒っているのですか?」男はこの言葉を聞くと驚いた様子を見せました。なぜなら一言も神のことなど話していなかったからです。おとなしくなった男はこう答えました。「今まで、自分の怒りを神に向けるのを恐れて、人に向けていたことに、今、気づきました。」レビは立ち上がると、男を嘆きの壁に連れていきました。「さあ、ここであなたの抱えている怒りをすべて神にぶつけなさい。」すると男は一時間以上も両手で壁をたたき、叫び、心の痛みを注ぎ出しました。しばらくすると泣き出し、すすり泣きとなり、しだいにそれは祈りに変わっていったというのです。レビはそのようにして男に祈りを教えたのです。

あなたが、心の中で血を流しているのに、表面的に笑顔を繕ってとしたら、あなたの天の父は喜ばれるでしょうか?あなたの天の父は、あなたの感情を、たとえそれが否定的なものであったとしても受け止めてくださる方なのです。否定的な感情があるならば、そのことを認めて、それを父の前に注ぎだすときに、私たちはじめて解放され自由にされるのです。
Ⅲ.上流からの祈り
フィリップ・ヤンシー(クリスチャンの著述家)は川の流れに例えて祈りを説明しています。要約すると、下流からの祈りとは「自分の関心事を携えて、なんとか神に知っていただき、かなえていただこうとする祈り」であり、上流からの祈りとは、「すでに全てを知っておられる神の恵みの視点から、神の働きの中で自分が担うべき役割を尋ねる」祈りであると説明しています。わかりやすく言うなら、「神様、私の問題に目を留めて、なんとか○○してください。」という祈りなのか、それとも「お父さん、あなたはすべてご存知で、すでに働いてくださっています。私は何をしたらよいでしょうか。」という祈りなのか・・・どちらの祈りをしていますか?・・・ということだと思います。下流から祈るとは「自分の必要を中心に祈ること」であり、上流から祈るとは「神が望んでおられることを中心に祈ること」だと思います。主の祈りは、まさにそのような祈りのお手本です。
「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが・・・行われますように。」

自分の必要を中心に祈っている時には、私たちはなかなか神のみこころを理解することができません。しかし、神が望んでおられることを中心に祈り始めるならば、神が私たちを心にかけ、すでに働いておられることを理解できるようになります。あなたが満たすことのできる必要がたくさんあることに気づくのです。あなたを必要としておられる父にあなた自身を提供するならば、あなたを通して(誰かの)祈りが答えられるのです。こう祈ってみませんか・・・「天のお父様、あなたは私に何を望んでおられますか?」