会話をキャッチボールに例えることがありますが、良いコミュニケーションが話すことと聞くことの両方がかみ合ってはじめて成り立つことを説明しています。私たちが祈りを通して神様と親しい関係を築いていこうとするなら、祈りのキャッチボールを習得する必要があると思うのです。キャッチボールをするためには二人が向き合っていないとできません。先週は、良き天の父である神様が私たちに心を向けていてくださることをテーマに祈りについて学びました。今日は、私たちが天の父にこころを向けることについていっしょに考えたいと思います。
Ⅰ.ディボーション 静まって祈る
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 (マタイ6:6)
マタイの福音書6章6節で主イエスは、奥まった部屋にはいってそこで祈るように勧めています。主が言わんとしていることは、日常の雑事から離れて一人になり心を天の父に向けて祈る時間を持ちなさいと言うことであって、必ずしも「部屋の中で」ということではありません。主イエスご自身は、忙しいミニストリーの合間にときどき寂しいところに一人で行かれて祈られたことが記されています。一人になり静まって祈る祈りのことをディボーションといいますが、忙しい現代に生きる私たちは、それなりの努力と工夫をしないと毎日30分のディボーションの時間を持つことは簡単ではないと思います。
ドンさんは多忙な生活の中で祈りの習慣を身に着けようと、日めくりカレンダーに「7時~7時30分・祈り」と書き込んでいたのですが、いつもやり損っていました。忙しいスケジュールの中で、ついつい後回しにして結局祈らないで一日を終えてしまうことの方が多かったのです。なんとか習慣を変えたいと願っていた彼はあることを思いつきました。カレンダーに「7時~7時30分・神」と書き込んだのです。どういうわけか今度は簡単に後回しにすることができなくなったそうです。ようやく30分のディボーションを持つようになった彼は、しばらくして自分の変化に気づいたそうです。それまでは、祈りを訓練として億劫に感じていた彼でしたが、今はその時間を「神様と仲良く過ごす時間」として考えられるようになっていたのです。 もちろん、ドンさんのようにカレンダーに「神との時間」と書くことで誰もがディボーションを持てるようになるということではありません。ドンさんが祈りの時間を持てるようになったのは、優先順位を変えようと努力した結果です。

Ⅱ.父なる神にこころを向ける
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、※鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:16~18)
※「主の栄光を鏡に映すように見ながら」と訳すことも可能です。Ⅱコリントの3章12節~18節に書かれている「おおい」は、モーセの時代の悔い改めることを拒んだイスラエルの民のかたくなさ、またキリストによってもたらされた福音を拒んだパウロの時代のユダヤ人のかたくなさを象徴しています。私たちもかつては、おおいがかけられて恵みの福音を理解することのできない者でした。でも、キリストにこころを向けたときに、おおいが取り除かれて神がどのような方であるかを知り、キリストの十字架の意味を知り、そして・・・自由にされているはずなのです。キリストが与えてくださった自由の中に生きるためには、私たちは毎日、主に私たちのこころを向け続けて歩んでいく必要があります。私たちと天の父との関係を阻んでいるものが「おおい」です。その「おおい」は自分の力で取り除くことはできません。
①私たちが心を主に向けるときに、
②主がその「おおい」を取り除いてくださり、
③聖霊との交わりの中で私たちのたましいを自由にしてくださるのです。
④そして、主の栄光を見つめながら、主の栄光を反映させながら、
⑤聖霊の力によって少しずつ主に似たものへと変えられていきます。
それが祈りのもたらす結果です。
三人の子供を祈りながら育てた、育てながら祈ったジュディさんというお母さんの証しを紹介したいと思います。
「私自身の祈りの生活は、長い間に多くの変化を経験してきました。5歳と3歳と1歳の子どもがいる若い母親にとって、本当に祈れる唯一の時間は文字どおり真夜中でした。深夜に目が覚めると祈りました。子どもたちが大きくなると、朝4時半に起きて祈るようになりました。いまだに決まった時間に祈れるような理想的な環境にありません。10代の子どもが3人いて、フルタイムの仕事をもつ母親なので、疲れて祈れないこともあります。でもたいてい、わずかでも静かな祈りの時間をもつことができます。何年間もスケジュールがくるくる変わるので、『神は私の祈りの生活にいったい何を期待しておられるのだろう』と自問しました。私の得た答えは、神は愛に基づく関係を求めておられる、ということでした。神は召使いを雇いたいとは思っておられません。神がお求めなのは花嫁です。真実の愛は常に道を見つけるものです。いつも同じ方法や命じられた方法ではないかもしれませんが、愛を反映している方法でしょう。それが、神が私に求めておられることです。」

私たちはそれぞれ置かれている境遇が違います。その中で自分自身の祈り方を見つけていく必要があると思うのです。祈りは、神の声を聴き、必要を訴え、誰かのためにとりなすことですが、それ以上に、ただ神とともに過ごす時間でもあるのです。祈りはすべての扉を開くカギです。
