祈り・・・心を尽くして神を愛する

◎一番大切な人生のプロジェクト

私たちの天の父は、私たち一人ひとりと親密な関係を築きたいと誰よりも強く願っておられます。神様と親密な関係を築いていくことは、私たち一人ひとりにとってもっとも大切な人生のプロジェクトです。祈りなしには父なる神との関係を築いていくことはできません。父なる神との親しい関係を築くための祈りについて4つのポイントからいっしょに学びたいと思います。

父なる神にこころを向ける

どんな状態であっても、そこで父なる神にこころを向けることが祈りの第一歩です。主を見上げること自体が祈りだからです。その時、父なる神を賛美することが祈りの大きな助けになります。賛美するとは「あなたは良き方です。」と告白することです。

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12:30)

主イエスは、「一番大切な命令は何か?」と問われたときに、即座に「神を愛することだ」と答えられました。それは神を信じる私たち一人ひとりに与えられた命令です。一対一の向き合った関係なしには、私たちは十分に愛されていると感じることはできません。神様も同様です。お子さんが何人かおられる方は理解できるかと思いますが、子供はお父さん、お母さんに自分にだけ目を向けてほしいのです。兄弟の中の一人としての関わりだけでは満足しません。結婚関係においても妻は夫に特別な存在として見てほしいという欲求を持っています。One of them(その他大勢の中の一人)でしかなかったら大変です。夫婦はお互いに相手にとって親密な特別な一人でなければなりません。生涯をかけてそのような関係を目指していくのが結婚生活だと思うのです。同じように父なる神は、あなたとの一対一の独占的な関係を求めておられるのです。

「神を愛しなさい」とは「一生懸命、神との親密な関係を築きなさい」という命令でもあります。その最初の一歩は父なる神に心を向けることから始まります。

◇これが私の祈りです。

祈りについてたくさんの本を書いているヘンリー・ナウエンという人がいますが、彼がイェール大学の教授時代、クローゼットを祈りの部屋に作り変えたそうです。どんなに忙しくてもわずかな時間を見つけてその小さな祈りの部屋に入って祈りの時を持っていました。それでもやっぱり気が散ってうまく祈れない時がたびたびあったそうです。そんな時彼は、「主よ、こんなに混乱していましたが、これが私の祈りでした。これから外の世界に戻ります。」と言って仕事に出かけて行ったそうです。

たとえ混乱したとしても、祈りは祈りなのです。どんな状態であっても主にこころを向ける習慣を作りましょう。そこにいてくださる神を賛美しましょう。

Ⅱ.父なる神に正直な気持ちを伝える

恐れであっても、疑いであっても、苛立ちであっても、それをそのまま正直に父なる神にぶつけてよいのです。神様は私たちに上品な祈りを求めてはいません。ただ、正直に向き合ってほしいのです。恐れていることを認めなければ、主からの平安を受け取ることはできないからです。自分の力で赦せないことを認めなければ、主から赦す力をいただくことはできないからです。聖書には神を賛美する麗しい祈りもたくさんありますが、否定的な感情をぶつけるような生々しい祈りで満ちています。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ書1:18)

神様は「きれいに身を清めてから、私の前に来なさい。」とは言われません。汚れたまま、混乱したまま、失敗したままで良いから、ともかくそのまま出てきなさいと呼びかけていらっしゃいます。神様は私たちと対話したいのです。ここで、「論じ合おう」と訳されているもともとのヘブル語は法廷用語でもあります。神の前に出れば当然、私たちの罪は明らかになりますが、神様は赦しと聖め、無罪判決を用意して待っていてくださるのです。それは、キリストの身代わりの死のゆえに無条件で与えられる恵みです。大胆に恵みの御座に進み出ましょう。

Ⅲ.父なる神に触れていただく

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)

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この聖句はラオデキヤの教会、そこにいるクリスチャンたちに向けて語られたことばです。キリストを外に閉め出してしまっていることをこの教会は気づいていませんでした。私たちはどうでしょうか私たちの生活から、関係からキリストを締め出していないでしょうか。あるいは心に迎え入れてはいるものの、私たちの心にキリストが入れない部屋はないでしょうか。私たちがキリストを主を呼ぶのであるならば、キリストは私たち「あるじ」なのです。私たちをご自身の血で買い取って愛をもってご自身の者とされているのです。キリストは力ずくで私たちを支配されるような方ではありません。私たちと食事がしたいのです。心の通う話がしたいのです。時間を共有したいのです。愛するパートナーとして共に歩みたいのです。そのキリストを私たちは迎え入れ、心に触れていただくような関係を持つことの望んでいるでしょうか。キリストは私たち一人ひとりと親密な関係を持つことを切望しているのです。

祈りが表面的になってしまうことの原因のひとつは、神様が私たちの心の核心部分に触れようとされて延ばされた手を私たちが振り払ってしまう、あるいは上手によけてしまうからだと思います。私たちの魂が自由になるためには、主に触れていただく必要があるのです。聖霊だけが私たちの魂の奥深くにある傷をご存じであり、いやしてくださる方です。

御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。(詩編51:9~10)

詩編51編は姦淫と殺人の罪を犯したダビデが神に向かって叫んだ祈りです。私たちはいのちの源である父なる神との関係が傷ついたままでは、回復することができません。ダビデは人生の最大のピンチの時に、神に向かって叫んだのです。神様に触れていただかない限りは、本質的なことは何も変わりません。

すでに私たちの祈りに耳を傾けてくださっている方、私たちのためにとりなしていて下さる主イエスに感謝しましょう。感謝の祈りは、私たちの心の扉を開く助けになります。

Ⅳ.父なる神のみこころ(願い)を選び取る

父なる神にこころをむけ賛美し、私たちの正直な状態を告白し、聖霊に触れていただく時に、私たちは主の静かな語りかけを聞き分けられるようになっていきます。聖霊は私たちに何かを強要されるような方ではありません、私たちが扉を開けるのを待っておられるのです。もしかしたら私たちがかたくなに握りしめていたものを手放すように促されるかもしれません。でも、それは父なる神が私たちに最善のものを手渡そうとしているサインなのです。私たちが求める前に、キリストはすべてを知っておられ、父の傍らで私たちのためにとりなしておられます。私たち自身を明け渡して、神の供えられる最善を受け取る時に、私たちもまたキリストと共にとりなす者と変えられていくのです。

日々の祈りの中で、自分を明け渡し、神がそなえられた最善を受け取っていけるように求めていきましょう。

55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
55:12 まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
55:13 いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」
(イザヤ55:8~13)