祈り・・・キリストの平和による支配

◆コロサイ人への手紙3章12節~17節

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

先週はコロサイ人への手紙2章7節から、祈りの生活の中での大切なポイント「キリストに根ざすこと」と「感謝すること」について学びました。では、キリストに根ざした生き方するために私たちはどうしたらよいのでしょう。聖書がどう教えているか、過去のメッセージの中で何度か引用した個所ですが、同じコロサイ人への手紙3章12節~17節を見てみたいと思います。ここで、私たちの歩みの大きな助け、鍵となる「キリストの平和による支配」ついて語られています。

Ⅰ.キリストの平和

聖書の教える「平和」について何度もメッセージの中で語ってきましたが、大切なテーマなので、もう一度、簡単に復習したいと思います。

(以下2014年5月日のメッセージから)新約聖書ではギリシャ語のエイレーネーという言葉が「平安」「平和」と訳されていますが、旧約聖書の「シャローム」の持つ意味を背景に使われていま す。この「シャローム」はユダヤ人の間では、「平安がありますように」との意味で日常の挨拶に用いられている言葉ですが、平安以外にも、健やかであること、繁栄すること、安心できること、和解がもたらされること・・・と多様な意味を含んでいます。さらに「シャローム」は創造主である神が創り与えるものであり、何も 損なわれていない100%満たされた状態をも表しているのです。

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ここで、注目したいのは、キリストの平和が一人ひとりの心を支配するようにと語られているだけでなく、キリストのからだである教会の関係をも支配するようにと読める点です。個人に与えられる平和よりもむしろ教会という神の家族に与えられる平和に比重が置かれて語られているように思えます。キリストの平和が支配すべき三つの領域、神との関係、自分の心、神の家族との関係があげられています。神の家族との関係抜きに、キリストにある心の平和を考えることはできないということです。未完成な私たちですが、キリストにあって良き関係を築くことが求められています。

Ⅱ.支配するようにしなさい

ここで「支配する」と訳されている言葉は、もともとはオリンピックなどの競技での勝敗を「審判する」意味で使われた言葉です。であるなら「キリストの平和を、あなたがたの心の審判者にしなさい」と直訳すこともできるわけです。キリストの平和を審判者にするとはどういうことでしょうか。キリストは私たちを力ずくで支配される方ではありません。

みなさんリオのオリンピックをご覧になられたと思いますが、すべての競技にかならず審判が立ち会います。それぞれの競技のルールに則って採点がなされ、勝敗が決定されます。日本が銀メダルを取った男子400メートルリレーで3位に入ったアメリカが失格になったのを覚えてらっしゃいますか。失格の理由は、第一走者から第二走者へバトンを渡す際、ラインの外で手にバトンが触れたためということです。がっかりしたと思いますがアメリカは抗議しませんでした。

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もしかしたら、私たちも、毎日の生活の中でキリストの平和というガイドラインを越えてしまってはいないでしょうか。どういうことでしょう。日々の生活の中で、キリストの平和を失うような否定的な思いを選び取ってはいないか、言葉を発してはいないか、自分の良いと思う基準で走っていないかということです。私もたびたびしまったと思うことを言ったりしたりして、平安を失ってしまうことがあります。イライラしたり、落ち込んだりすることもありますが、幸いなことにスポーツ競技と違って、すぐその場でやり直すことができるのです。神様にすぐに告白すればよいですし、家族や友人にすぐに謝ればよいのです。そのようにして、キリストの平安をすぐに取り戻すことができるのです。根が深い問題は少し時間がかかるかもしれませんが、原則は同じです。

私たちは疑問を引き起こすような否定的なメッセージに耳を傾け、心を奪われやすい弱さを持っています。「お前は価値がない」「失格者だ」「愛されていない」「だれかが批判している」「周りの人たちはお前を否定的に見ている」と耳元でささやいているのは悪魔です。そのつぶやきに心を支配されてはいけません。私たちはいくらでも自分の否定的な感情を神様の前に注ぎ出してよいのですが、同時にそれを手放していかければならないのです。告白するとは手放すことでもあるのです。そうする時に私たちの心を、私たちの関係を、キリストの平和が支配するようになるのです。ダビデの祈りをもう一度思い出してみましょう。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。(詩編51:9~10)