祈り・・・神のご計画に生きる

◆イザヤ書55章6節~13節

55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
55:12 まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
55:13 いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

イザヤはユダの民に神のもとに立ち返り、メシヤを通して実現される神の約束と計画に望みを置いて生きるようにと呼びかけています。私たちは、キリストを通して成就した救いの約束の中に生かされています。この世界がどんなに暗く見えても、神の大きなすばらしいご計画は完成に向かって進んでいるのです。その計画に生きる特権が与えられていることの意味について考えてみましょう。

Ⅰ.神の呼びかけ

6節~7節の中で、神はユダの民に対して、「主を求めよ」、「罪を捨て去れ」、「神に帰れ」と三つの呼びかけをしておられます。罪赦されて神の子とされた私たちですが、本当の意味で神のご計画の中に生きていくためには、この三つの呼びかけに答えていくことがとても大切だと思うのです。

1.主を求めよ

神は真剣にご自身を求めるように(呼び求めるように)と訴えておられます。6節を読むと、その求め方には緊急性が伴っていることが分かります。「機会を失わないように、今、真剣に求めなさい。」と語っておられるのです。もう早いもので、忙しくしているうちに9月も半ばになってしまいました。何をしたか考える前に、私たちの主とどれほど親しい時間を過ごせたかを考える必要があると思うのです。一日を考えても、あるいは人生を考えても、何にを優先して、何に時間を使ってきたかが最後に問われるのです。

2.(罪を)捨て去れ

7節で語られている道とは人間の生き方(ライフスタイル)のことです。はかりごととは人間の思い(心、願望、考え)を指しています。罪ということばは使われていませんが、創造主である神の求める生き方から離れた生き方であり、神の求める思いから離れた思いを捨てるようにと迫っているのです。罪の原語であるギリシャ語のハマルティアは「的外れ」を意味しています。すなわち創造主の良きご計画、良き思い(願い)から外れた生き方、外れた思いが罪なのです。主なる神を真剣に求めることはそれらを捨て去ることを意味しています。

3.神に帰れ

主を求め、罪を捨て去り(的外れな生き方から離れ)、そしてはじめて神に立ち帰ることができるのです。真剣に神との関係を求めることには、痛みが伴うかもしれませんが、あわれみ深い私たちの父は、豊かな赦しをもって私たちを受け入れてくださるのです。ただ赦してくださるのではなく、豊かに赦してくださるのです。恵みの中に生かされている私たちですが、日々、主なる神との関係を求め、罪から離れ、神に立ち帰る生活を送ることを私たちの父なる神は願っておられます。私たち夫婦は、最近はあまりぶつかることもありませんが、それでも人間ですから、ちょっとしたことで関係を傷つけてしまうことがあります。小さな傷であったとしても、それを放置してしまうことはとてもできません。心が痛むからです。黙っていても寛容な妻は赦してくれるかもしれませんが、「さっきはごめんね」と言って、できるだけ早く修復できるように努力します。

Ⅱ.神の道と思い

神の道(計画)と人間の道(計画)、神の思いと人間の思いが対比されて書かれています。私たちがどんなに頑張って考えた計画であったとしても、それがどんなに良く見えたとしても、神の道、神の思いには遠く及ばないのです。かえって主なる神と私たちの関係を傷つけてしまうこともあると思うものです。自分の力に頼ったユダの民がたどった道は悲惨なものでした。あわれみ深い神はご自身が備えられた最善の道(計画)に立ち帰るようにとご自身の民に呼びかけられたのです。

私たちの主は、ご自身の大きな、またすばらしいご計画の中で、小さな私たちを豊かに用いてくださるのです。私たちはちょうどいジグゾーパズルの一つ一つのピースのような存在です。それぞれが置かれるべき場所があり、そこに置かれて他のピースと組み合わされていくときにやがて一枚の素敵な絵が完成するのに似ています。

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ずいぶん前のことですが、独身時代に働いていた職場の近くで一人のクリスチャンのおばあちゃんに出会い、とても親しくなりました。中野駅の近くで風月堂という小さなお菓子屋さんを開いていた深見さんという方です。あるとき、深見さんが、一人で長年続けてきたミニストリー(支援活動)の話をしてくれましたのですが、とても感動したのを覚えています。戦後まもなく、韓国で孤児院を経営しているある牧師先生の話を聞いた深見さんは、わずかな売り上げの中から子供たちにお菓子を送るようになったというのです。自分が送ることのできるわずかなものに満足できなかった深見さんは、なんとかもっとお菓子を送ってあげたいと思い、大胆にも取引先の製菓会社の社長さんに会いにいって、韓国の孤児のために飴を送ってくれないかと掛け合ったそうです。社長さんは小柄なおばあちゃんの心意気に打たれて、快くたくさんの飴を孤児院に送ってくださるようになったそうです。深見さんと韓国の牧師先生、孤児院の人々との交流は、彼女が天に召されるまで続きました。

神の道、そのご計画の先には希望に満ちた新しい世界が約束されています。私たちはそこに通じる道を歩んでいるのです。小さな者であっても、その道を歩んでいる私たちを、天の父は豊かに用いてくださるのです。チャレンジがあっても、喜びをもって出て行き、安らかに導かれていく、そのような祝福に満ちた道が私たちのために備えられているのです。