1:4 次のような主のことばが私にあった。
1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」
1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。
1:10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」

◎神様の召しに応えた預言者
エレミヤはバビロン捕囚の時代、ユダヤの民にとっては非常に過酷な時代に預言者として召され、預言者として生きた人です。前回は、クリスチャンである私たちが聖なる祭司として召されていることを学びましたが、今日は、エレミヤに与えられた召命のことばから、一緒に、私たちに与えられている召しについて考えたいと思います。召し(召命)、英語ではCallingと言いますが、クリスチャンにとっては、神様が私たちに与えておられる働き、計画、また人生の目的です。神様はエレミヤに、いくつかのことを命じます。「まだ、若い、と言うな」「わたしが遣わすどんな所へでも行け」「わたしが命じるすべての事を語れ」そして「彼らの顔を恐れるな」です。厳しい命令ですが、そこには神様の約束が伴っています。
Ⅰ.まだ若い、と言うな
クリスチャンの人生は神様の召し(呼びかけ)に応えていく人生です。私たちキリストのからだに属するすべてのクリスチャンには神様からの共通した召しが与えられています。また同時に、一人ひとりに例外なく個人的な召しが与えられています。私たちはみなそれぞれ、願いや夢、目的をもって人生を生きていると思います。それらの中に神様の召しが隠されている時もありますし、また、そうでない場合もあるでしょう。神様の召しに関して、今まで教えられたことがあります。一番目に、神様が呼びかけられる時に、私たちは選択を迫られます。応じることもできるし、拒むこともできます。二番目に、神様の召しに応じる時に、大きな変化が訪れます。三番目に、神様の召しであるならば、困難があっても、それを続けていくことができるということです。
神様の選びはある意味一方的に見えます。エレミヤの召しもそうでした。私たちはエレミヤのような預言者ではありませんが、神の代弁者としての役割が与えられています。教会にはイエス・キリストの福音をこの世界に伝える使命が与えられています。福音は、神様の召しに応える人々に、罪と滅びからの「救い」を約束しています。またイエス・キリストにある「豊かな人生」を約束しています。「救い」とは神様の召しの中に生きることです。神様の召しに応えて生きようとするときに、最初に向き合わなければならない障害は「自分の弱さ」です。エレミヤは神の召しを受けた時に20才くらいの若者であったと言われています。現代の日本であれば成人式を迎えるばかりの若者に、神の代弁者としての大役を与えられたのです。エレミヤが対峙しなければならないのは、かたくななユダヤの民、頑固で老獪な指導者たちでした。エレミヤが尻込むのも無理もないと思いますが、神様の選びと召しはエレミヤから離れません。神様の召しが、私たちの願っていること、求めていること、あこがれていることと同じであるならば、神様の召しに応えることは難しくないと思います。また、自分の能力でできることならば、不安を感じないでしょう。夢やあこがれを持つことを否定しているのではありません。それらを神様に捧げていく必要があるということです。エレミヤにとっての召しは、彼がまったく願っていないことであり、また、どう考えても自分の能力を超えたことでした。私たちが、自分の願いを神様に捧げて、自分の力ではなく、召してくださった神様の力に信頼して歩み出すときに、神様の力が現されるのです。
Ⅱ.わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ
神様はエレミヤをご自身の手足として、また代弁者として用いるために選ばれました。しかし、その選びはエレミヤが生まれる前から定まっていたと言うのです。新約聖書のエペソ人への手紙で同じことが語られています。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)神様は私たち一人ひとりを、目的をもった作品として造られ、また、その働きのために必要な賜物も予め与えてくださっているのです。もちろん、神様に用いていただくためには、まず私たち自身、私たちの持っている物を神様の手に捧げていかなければなりません。若い人たちも、年配の方たちも大いに夢を持ってください。ただし、その夢を神様に捧げてください。「私の行きたい所だけに行かせてください。私の語りたいことだけ語らせてください。」と、正直に(笑)祈る人はあまりいないと思いますが、もしかしたら、私たちの祈りにはそのような動機が隠れているかもしれません。私たちにとって、賢明な祈りは、「主よ。あなたの願いを私の願いにしてください。」という祈りです。なぜなら私たちを本当に満足させることのできる方は、神様しかおられないからです。
3年前に、サハリンを訪問した時のことです。旅行中にサハリン最北端のオハという町にある教会の牧師家族と交流する機会が与えられました。小林先生の支援で建った教会の一つです。私が訪れたのは8月でしたが、ジャケットを着ていないと肌寒かったのを覚えています。冬には気温が零下20度~30度まで下がる極寒の地です。自然はきれいですが、人口の少ない、殺風景な町でした。暖かく迎えてくれた牧師先生のポツリと言われた言葉が心に残っています。「私はこの町が好きなんです。」それを聞いて、私は自分に問いかけてみました。「僕は、府中がすきだろうか?」「東京がすきだろうか?」「日本がすきだろうか?」と・・・。
皆さんはどうですか?皆さんの住んでいる町が好きですか?そこに住んでいる人々が好きですか?もし、そうならば、それは皆さんがそこに召されている証しだと思います。
Ⅲ.彼らの顔を恐れるな
神様の召しに応えるために、私たちが乗り越えなければならないもう一つの障害が「人に対する恐れ」です。聖書は、私たちに神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛し、そして神のことばに反しない限りはこの世の権威に従って生きるように命じています。しかし、その一方で「人を恐れるな」とも命じています。「人を恐れるな」とは、エレミヤにとって、「神の遣わした預言者」であることを、また「神のことば」を恥じてはいけないということです。私たちにとってはどうでしょうか。パウロはローマ人への手紙の中でこう語っています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)力は私たちにではなく、私たちの語る福音にあるのです。私たちは神の子とされていること隠さずに、心から喜んで生きているでしょうか?信じるすべての人にとって救いとなるこの福音(GoodNews)を人々と分かち合っているでしょうか?
神様の召しに応えて生きていこうとするならば、まだ若い(もう年を取りすぎている、忙しすぎる、お金がない、能力ながい・・・)と不利な条件を持ち出して尻込んではいけません。私たちを造られた方、創造主なる神様が、私たちを用いてくださるからです。大きな夢を持ってください。ただし、神様のみこころを求め、神様の願いが自分の願いとなるように祈りましょう。そうするならば、神様が私たちを最善の場所に遣わしてくださいます。そこがどのような場所であっても、神様はそこにいて私たちを助けてくださると約束しています。「わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:8)神の子とされていることを心から喜び感謝しましょう。そして、この良き知らせである福音を私たちの愛する人々に伝えて行きましょう。