1:4 次のような主のことばが私にあった。
2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
2:20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
2:21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
◎最初の人間関係
創造の物語の中で、神様がご自身の助け手(パートナー)として人間を創造されたこと、そして、アダムの助け手としてエバが与えられたことについて語られています。聖書が最初に教えている人間関係は「夫婦」の関係です。人間関係の基本が結婚関係の中で教えられています。同時に聖書はしばしば神と神の民との関係を「結婚関係」を用いて教えています。今日は創世記に戻って、「助け手」というキーワードを通して、聖書の教える創造主と人間の関係、そして人間同士の関係について学びたいと思います。

Ⅰ.人間の自由意志と創造性
神様が、「人をご自身のかたちに創造された。」(1:27)とは何を意味するのでしょうか。神のかたちの一つの特徴に、人間が自由な意志を持っているということがあげられると思います。自分で考え、選び、決断する自由が与えられています。神様は人間を命令することだけを行うロボットのようには造られませんでした。神様は人間を愛する対象、語り合うことのできるご自身のパートナーとして造られたからです。人間に与えられたもう一つの特徴があります。それは創造性です。無から有を生み出すことはできませんが、自分の心を表現したり、神様から与えられた素材を使って形あるものを作り出したり、関係を築き上げたり、新しい意味を生み出したりする能力が与えられています。生き物を想像されたのは神様ですが、それに名前を付けたのは人間です。人間に自由意志と創造性が与えられているのは、神様と人間との関係の土台が愛であることの証であると思います。創世記を読むと、創造主が人間との交流を喜び、楽しんでおられる姿が浮かび上がってきます。(※ちなみにイスラム教の経典コーランには、アッラー(神)がアーダム(人間)にすべての物の名前を教えたと書かれています。)
Ⅱ.ふさわしい助け手
神様は、ご自身の形に創造された人(最初の男性)のために「ふさわしい助け手」を与えられます。最初の男性はアダムと呼ばれていますが、アダムは固有名詞ではなく、「人」という一般名詞です。これに対して、エバは、「生きる者」「生命」を意味しています。ここで語られている「ふさわしい助け手」の意味を考えてみたいと思います。「ふさわしい」と訳されている言葉はヘブル語のケネグドーで、「対等に向き合う」という意味があります。向き合うのは対決するためではなく相手の欠けを補うためです。「助け手」と訳されている言葉はへブル語の「エーゼル」です。旧約聖書の中で20数回使われているそうですが、多くの場合、神様がイスラエルの民の助け手となられる時(困難や敵の圧迫から助け出す時)に使われています。ですので、女性が補助的なアシスタント(お手伝いさん)として造られたのではないことが分かります。対等なパートナーという理解が適切です。
創造の初めには、神様と人間の関係も夫婦関係も全てが調和の内にうるわしく保たれていました。人間は創造主とすべての良きものを共有していたのです。しかし、罪が入ってきた時に、創造主との関係が壊れ、神の助け手としての夫のリーダーシップも夫の助け手としての妻の役割も損なわれてしまいました。神様の愛のご支配から離れた時から、人間同士の主導権争いが始まったのです。夫婦間の争いも、国家間の戦争も根は同じです。聖書は平安を失い争いの中に生きる私たちに回復の道を提示しています。イエス・キリストの十字架の贖いを通して、父のもとに帰る道、神の国(神の愛のご支配の中)に生きる道が開かれています。
夫婦関係に限って考えるならば、夫、妻それぞれがまず神様と和解し、神様のご支配の中に歩む決意を日々していかなければなりません。夫は自分に与えられている家庭の牧者としての召し、賜物、働きを理解する必要があります。牧者としての夫の働きは妻をいたわり、理解するところから始まります。妻は自分に与えられている「助け手」としての役割を理解し、夫のリーダーシップを支えていかなければなりません。神様があなたの夫を取り扱い、建て上げようとしています。その神様の働きに協力することが「ふさわしい助け手」に求められている生き方です。助け手としての妻の働きは夫を尊重し、励ますところから始まります。決して貶してはいけません。
Ⅲ.神の助け手としての召し
教会も同様です。教会を建て上げようとされている神様の働きに協力することが神の助け手(同労者)に求められている生き方です。神様が関心を向けているところに目を向けてとりなしてください。大切なのは、私たちに与えられているすべての召しと賜物は、自分と他の人たちを建て上げるためにしか用いることができないということです。アダムが神様の助け手として造られたように、またエバがアダムの助け手として造られたように、私たちはみな、イエス・キリストを通して神の助け手としての召しを受けています。それは、キリストのからだにあって、お互いを補い合うためであり、お互いに分かち合うためであり、お互いを建て上げ、共に神の国の働きに参加し、共に主を喜ぶためです。キリストが私たちのためにご自身を分け与えてくださったように、私たちが神の助け手としての召しに応えて、自分自身を、自分の時間を、与えられている賜物を、持てるものを主にある家族と分かち合っていくときに、そこにキリストのからだが建て上げられていきます。