彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。

◆ペテロの手紙第一2章4節~6節

1:4 次のような主のことばが私にあった。
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

◎聖なる祭司

ペテロの手紙第一2章4節~5節は、今年の指針聖句ですが、今日は、それに続く6節からいっしょに学びたいと思います。キーワードは「尊い礎石」、「信頼する者」、「失望させられることがない」です。

Ⅰ.尊い礎石

聖書は、キリストが「尊い礎石」であると教えています。今までも何度かメッセージでお話ししましたが、礎石(新改訳)、隅のかしら石(口語訳)英語ではコーナーストーンと呼ばれていますが、建物を建て上げていく時に、他のどの石よりも注意深く、またしっかりと据えられる要(基準、基礎)となる石です。「主が尊い礎石である」とは、イエス・キリストだけが、教会の土台となるべき方であること、そして、イエス・キリストだけが教会に属するすべてのクリスチャンを一つに結びつける方であること、またクリスチャン一人ひとりの人生の土台であることを教えています。

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日本でも、世界でも多くの人々が「本当に大丈夫だろうか」という漠然とした不安の中に生きています。忙しさの中で、その不安から目を背けたり、忘れたりしているかもしれませんが、自分の心を探るならば、「不安」「恐れ」があることに本当は気づくと思うのです。クリスチャンになって、いろんなことが変わりましたが、その大きな変化の一つは心に平安が与えられたことです。心配したり、くよくよしたりすることもありますが、心の底に「大丈夫だよ」と語りかけてくださる方がともにいてくださるのです。もう一つは人のために祈るようになったことです。家族、教会の皆さん、友人、知人、よくいろんな人の顔が浮かんできて、その人たちのためにお祈りします。

最近、ある方の顔が浮かんできて、その人のために祈っていました。クリスチャンではないその方が不安を抱えておられることは何となく気づいていました。「神様、こちらから訪ねていくことは、なかなかできないですが、もし、招かれたならば、伺ってあなたのことをお話しします。」そんな簡単な祈りでした。ところが、2時間としないうちに、その方から電話がかかってきて、「うちに来て、キリスト教の話しをしてくれませんか。奥さんも連れてきてください。いつだったら大丈夫ですか。」と言うのです。あまりのタイミングにびっくりしましたが、「はい、伺わせていただきます。」とお答えして、日程を調整してお伺いし、自分の信仰や聖書の話しをする機会が与えられました。最近起こったことですが、神様の御心を求めて祈る時に、度々、このような導きを経験をするようになります。

お誘いいただいた知人のお宅にはその方のご友人も何人か来られていました。簡単に聖書の語っている福音をお分かちしました。「キリストが私たちの罪のために身代わりとり十字架にかかって死なれたこと、しかし、三日目によみがえられて今も生きておられること、このキリストを信じる者には永遠のいのちが与えられること、それを私たちは単純に信じているんですよ。」と話すと、何人かがフッと笑いを浮かべました。そうです、福音はおろかしく聞こえるかもしれませんが、クリスチャンはそのおろかしく聞こえることを信じているのです。

「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Ⅰコリント1:21)

しばらくおしゃべりをしていましたが、自分の体験を証しするチャンスをうかがっていました。するとタイミングよく一人の方が、「どうしてクリスチャンになられたんですか?」と聞いてこられました。たくさんの悩みを抱えた十代の少年時代のこと、家族の問題、死の恐れ、将来の不安、自分や身近な人々を愛せなかったこと、そんな葛藤の中で聖書と出会ったこと、やがて教会に導かれてクリスチャンとして歩み出したこと、自分が神様から赦されていることを知った時に、不思議に人々を赦せるようになったこと、家族関係が回復し、クリスチャンの妻と結婚して幸福な家庭が与えられていること・・・。今度は、みんなシーンとして耳を傾けています。体験を否定することはできないからです。

Ⅱ.信頼する者

クリスチャンでなければ分からないことがあります。それは私たちの信仰が単にキリストの教え、聖書の教えを信じているだけではないということです。クリスチャンの信仰は人格を持った神様との交わり(交流)、今も生きておられるイエス・キリストに対する信頼です。

お招きを受けた先で、いろいろ難しい質問もぶつけられましたが、割と落ち着いていられたのは、この人たちを神様が愛しておられると感じることができたからです。妻も同じように感じていたと思います。たくさん質問をされた男性が、帰り際に、最後の質問を投げかけてきました。「今まで、あなたの信じている神を疑ったことはないですか?」神様にどう答えたらよいか求めて、このように答えました。「ここにいる妻の範子と結婚して30年近くになりますが、一度も彼女を疑ったことはありません。私の神様に対する信仰はそれに似ていますね。」すると、それを聞いてそこにいた女性の一人が「そうよね~。あなたの奥さんがあなたを裏切るわけないわよね~。」とそんなことを言ってました。でも、この女性は真理を言い当てていると思いました。なぜなら、私の信じているイエス・キリストは一度もわたしを裏切ったことはないからです。もちろん欠点や弱さを持った人間同士の関係と神様と私たちとの関係は本質的に異な部分があります。私が伝えたかったのは、クリスチャンの信仰が、私たちが「お父さん」と呼んでいる神様に対する信頼であるという点です。そこには親しい人格的な交わりがあるのです。クリスチャンとして生きてきた中で、いいろいろな問題の中で苦しんだり、動揺したり、悩んだり、がっかりしたりすることは何度もありましたが、「神様が良き方である」ことを疑ったことはありません。この出来事の結末がどうなるかは分かりませんが、イエス・キリストを証しするチャンスが与えられたことを感謝しています。

Ⅲ.失望させられることがない

「失望させられることがない」とは「願うようになる」ということではありません。「失望させられることがない」とは「願うようにならない時でも、愛に満ちた恵み深い神様が私たちとともにいてくださる」ということです。状況が良く見える時にも、悪く見える時にも、イエス・キリストはいつも私たちにとって良き方なのです。この方を人生の土台とし、信頼する時に、私たちは失望させられることがないのです。