2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
◎最初の教会
前回、4つのポイントからいっしょに教会について考えました。1.使徒たちの教えを固く守り、2.交わりをし、3.パンを裂き、4.祈りをしていた。ここから伺えるのは、初代教会のシンプルな姿です。今日は、後半部分の6つのポイントからいっしょに教会を考えたいと思います。
5.一同の心に恐れが生じ
神様は私たちにとって愛するお父さんです。しかし、同時に聖なる方、義なる方です。私たちは聖霊が顕著に働かれるように願いますが、それは同時に私たちの隠れた罪もはっきり示されることを意味しています。「聖霊に働いていただきたいですか?」と質問されたら、私たちはみんな「はい。」と答えると思うのですが、「自分のみじめな姿があらわになってもいいですか?」と質問されたらどうでしょうか。恐れが生じるとは、聖なる神様を畏れることでもありますが、私たちの罪が示されることでもあります。私たちは罪赦されて、イエス・キリストの犠牲の死によって、完全にあがなわれ、神の子とされた者ですが、相変わらず失敗しますし、罪も犯します。問題は、いつまでも変えられずに罪の奴隷のように生きているのか、それとも日々悔い改めて変えられつつあるのか、その違いにあると思います。パウロも訴えたように、私たちは自分の力で罪の束縛から自由になることはできません。自分の実情を認めて、神様に目を向け、心を変え(悔い改めて)、聖霊に助けていただくしかないのです。悔い改めのある心、悔い改めのある交わりには、聖霊の力が注がれます。そして、聖霊の働かれるところには神様に対する恐れと罪の自覚が生まれ、人々の人生が変えられていくのです。

6.多くの不思議なわざとあかしの奇跡が行われた
聖書の完成とともに、福音の証拠としての奇跡はなくなったと教える神学があります。しかし、最初の弟子たちを通して働かれたのと変わらない方法で、聖霊は今でも超自然的な方法で働かれるお方です。とくに、イスラム圏や迫害下にあるクリスチャンたちから驚くような奇跡の報告が送られてきます。私たち日本の教会にも、もっと奇跡的な聖霊の働きが起こるように祈り求めるべきだと思いますが、クリスチャンたちの悔い改めと聖い生き方がともなうものでなければ、どんなに大きな奇跡が起こっても決して実を結ばないと思います。最大の奇跡は、たましいの救いであり、人々の人生が変えられていくことです。
7.いっさいの物を共有していた
この時のエルサレムのクリスチャンたちは、文字通りすべての財産を共有していたようです。このような特殊な状況は長くは続きませんでしたが、自発的な愛に根ざした分かち合いの精神、惜しみなく与えるスピリットは弟子たちに引き継がれていきます。教会の働きは献金によって支えられていますが、あくまでも自発的なものでなければならない、決して強いられたものであってはならないと聖書は教えています。使徒の働きに記録されている教会は、顕著な聖霊の働きによって前進していきましたが、そこには喜んでささげる弟子たちがいたことを忘れてはなりません。私たちも豊かに分かち合うクリスチャン、惜しみなく与える教会でありたいと願います。
8.毎日、心を一つにして宮に集まり
ここから二つのことが分かります。一つは初代教会の弟子たちが、毎日、クリスチャン、キリストの弟子として生きていたことです。彼らはサンデー・クリスチャンではありませんでした。もう一つは、ともに集まっていたということです。ここを読むと、義務的に集まっていたのではなく、いっしょに礼拝したい、喜びを分かち合いたいという純粋な願いから集まっていたことが分かります。ここに登場するのは、主イエスが語られた真の礼拝者たちの姿です。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」(ヨハネ4:23)金太郎あめはどこを切っても金太郎の顔が出てきますが、神様は、どこを切ってもイエス様の顔が出てくるようなクリスチャンに、私たちを変えたいと願っておられるのです。
9.神を賛美し
礼拝で、ワーシップソングを歌うことも賛美ですが、賛美することの本質は神様が「すばらしい方」「偉大な方」「良き方」であることを心から認め、告白することだと思うのです。初代教会の弟子たちの賛美は、感謝からあふれ出た、心のこもった本物の賛美だったと思うのです。神様に対する感謝の表現が賛美だと言うことができると思います。たとえ問題があっても、私たちも神様に心から感謝し、賛美する者でありたいと願います。
10.すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
初代教会の弟子たちが迫害の中に置かれていたことを忘れてはなりませんが、その一方で、ここではすべての民に好意を持たれていたと書かれています。民が好意を持ったのは、弟子たちがキリストの愛をもってお互いを愛し合い、また隣人に仕えていたからではないでしょうか。エルサレムに生まれたクリスチャンのコミュニティーは、周囲の人々にとても魅力的に映ったのだと思います。リバイバルのために祈ることも必要でしょう。しかし、その前に私たちはキリストの愛に生きる者とされるように求めるべきではないかと思います。悔い改めのある所に、神に対する恐れが生まれ、そこに聖霊の力が豊かに現れ、真心をもって礼拝し、キリストの愛があるところに、人々は引き付けられてくるのです。