前回は神様が私たち一人ひとりにとって良き方であることを学びました。しかし、神様が良き方であるということは私たちの願い通りにことを運んでくださる方であることを意味しません。たとい私たちがどんな状況の中を通っていても信頼できる方であることを意味しています。今日はいっしょに、神様が信頼できる方であることを主の祈りの中から学びたいと思います。神様はあなたにとって信頼できるお方でしょうか。私たちが信頼という言葉を使うときに、「約束を守る」、「期待通りのことをしてくれる」、「責任を任せられる」、そういった意味で使うことが多いと思います。神様に対する信頼を私たちはどのように考えたらよいでしょうか。もちろん上にあげたような意味も含まれていると思いますが、私たちの神様に対する信頼を考える時に、神様が私たちのためにしてくださることよりも、神様が私たちに対してどのような方であるかの方が大切であるように思えます。
◆マタイの福音書6章9節~13節
①天にいます私たちの父よ。
②御名があがめられますように。
③御国が来ますように。 みこころが天で行われるように地でも行われますように。
④私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
⑤私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
⑥私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』 〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

1.天にいます私たちの父よ
神様は私たちの近くにいてくださる方です。この呼びかけは、神様が私たちの身近におられる方であることを教えています。皆さんは、私たちの父がおられる天がどこにあると考えられますか。宇宙のはるかかなた、あるいは私たちには感じ取ることのできない目に見えない遠い世界を指しているのでしょうか。そういった面もあるかもしれませんが、主イエスは「神の国は、ここにある」と語られました。主イエスがこの地上に来られた時から、天と地はつながっているのです。良き方である天の父がご支配される天の御国は、この地上にすでにもたらされ、まだ完成していませんが、私たちはその中に生かされています。主イエスがそうであったように、私たちも天の父との親しい交わりの中に生きることが許されているのです。パウロはアテネの人々に対して次のように語りました。「・・・確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。・・・」(使徒17:27~28)パウロは私たちとともに生きてくださる神を宣べ伝えていたのです。
2.御名があがめられますように
神様は聖い方です。神様の御名は神様の聖さを現しています。「御名があがめられる」とは神様の聖さが現されることでもあります。人として来られたイエス・キリストただお一人だけが神様の聖さを完全に現すことのできるお方ですが、神様はクリスチャンを通して、また教会を通してご自身の聖さを現したいと願っておられます。神様の聖さは、神様の愛と切り離すことはできないご性質です。神様の求める聖さは、神様の私たちに対する愛を知ることを通してのみ得られるものであって、私たちの行いによって得られるものでは決してありません。
3.御国が来ますように。 みこころが天で行われるように地でも行われますように。
神様は王の王なる方です。この祈りは神様が主権をもってこの世界を治めておられる王の王であることを教えています。神様はだれよりも大きな権威を持った、だれよりも力あるお方です。私たちにはその方を「アバ父」(お父さん)と呼ぶ立場と特権が与えられています。神の子とされた私たちは、この王の王なる方にお仕えする従順が求められていますが、神様は有無を言わせずに服従を迫る独裁者のような方ではありません。私たちに愛するパートナーとしてご自身を信頼し、従ってほしいのです。神様が私たちに求めているのは愛と信頼から生まれた従順です。主イエスは、この地上で生きられた間、父の御心から離れて神の御子としての権威と力を使われることはありませんでした。私たちも同様に、イエス・キリストを離れては何もすることができないのです。大切なのは神様の力とは霊的な生命力であり、創造的力である点です。
◆・・・子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。(ヨハネ5:19)
◆わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)
4.私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください
神様は豊かに養ってくださる方です。この祈りは、神様が私たちのことを心にかけて、くださるあわれみ深い方であることを教えています。主の祈りの前半は神様に対する賛美と御心に焦点が当てられており、私たちの必要には触れていません。衣食住に関することだけでなく、すべての必要を満たしてくださる方です。私たちの関心は、今与えられていないものに奪われがちですが、気をつけて見るならば、神様がすでに、たくさんの恵みを与えてくださり、私たちを祝福してくださっていることが分かります。ただ、それに気づかず、感謝できないことが問題なのです。
5.私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
神様は赦してくださる方です。神様は私たちの罪を赦したいと心から願っておられます。私たちの父である神様は、愛する子どもであるわたしたちにご自身との親密な関係の中に生きてほしいのです。私たちと神様との関係をはばんでいるもの、それが、罪です。
6.私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
神様は私たちを守ってくださる方です。神様は私たちを試みや悪から救い出すことのできるお方ですが、それは私たちが問題や試練に合わないようにするということではありません。たとえ問題や試練の中を通過することがあっても、その中をともに歩んで守り、助け、救い出してくださるということです。
◆神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
「すべてのことを働かせて益としてくださる」とは、私たちの願った結果になっても、あるいはたといそうならなかったとしても、神様が私たちにとって益としてくださるということです。私たちの願い通りになることが私たちの益とならない場合はたくさんあると思います。神様の関心は、私たちの願いよりも、私たちが神の形を取り戻すことの方に向けられています。私たちがそれを求めるようになった時に初めて、私たちは神様が与えようとしている恵みと平安を理解するようになります。